
あの人の未来に、私はいない
章 2
「ピン――」という音と共にエレベーターの扉が開く。
中から聞こえてきたのは、女性秘書のはにかんだ声だった。
「布川社長……まだ扉、開いてますよ……恥ずかしいです」
布川和馬は低く笑う。
「このフロアに入れるのは俺だけだ。何を恥じる必要がある?……それに、こういうの、ちょっとスリルがあって、悪くないだろう?」
次の瞬間、布が裂ける音と、女性秘書の甘い声が静寂を破った――。
神崎夕凪の足取りは、次第に重くなっていった。この場所に見覚えがある――布川和馬と付き合っていた頃、彼に連れられて来たことがあった。あのときと同じように、彼は甘い言葉で彼女を誘い、二人は抑えきれないほどに求め合った。
――死に物狂いで、貪るように。あのとき使ったのは、全部で18の部屋。どの部屋にも、二人の痕跡が残っている。熱くて、むさぼるような、愛の記憶。
だが今回は、少し違っていた。結婚したとき、布川和馬は夕凪の指紋と虹彩をセキュリティに登録していた。そのおかげで、女性秘書を騙しても入れなかったこのフロアに――神崎夕凪だけは、足を踏み入れることができた。
「きゃっ!」突然、女性秘書が叫び声を上げた。驚いた彼女は、咄嗟に布川和馬の背中に隠れた。
「だ、誰かいる…!」
黙々と作業に没頭していた布川和馬の背中が、不意にぴたりと止まった。ゆっくりと振り返るその耳には、まだ澄んだ水音が残響している。
彼は何の躊躇いもなく振り返った。神崎夕凪の目に飛び込んできたのは、かつて彼女にこの上ない快楽を与えた、見慣れすぎた身体だった。
視界が一瞬、真っ暗になる。神崎夕凪はそのまま意識を失いかけ、しかし布川和馬が素早く抱きとめた。火照った体温が肌越しに伝わり、吐き気が込み上げる。夕凪は勢いよく和馬を突き放し、二度と近づけまいと必死に距離を取った。
そんな彼女の拒絶に構わず、布川和馬は冷ややかな視線を女性秘書に向ける。その声は、氷の刃のように冷たかった。
「俺、言ったよな。うちの奥様を不機嫌にさせたら、どうするべきかって」
女性秘書は歯を食いしばりながら、神崎夕凪の目の前に膝をついた。そして自分の頬を、左右交互に強く叩きはじめた。
「奥様、すべては私の過ちです。布川社長の身体に魅了され、私のほうから誘惑してしまったんです。彼はただ、世の男たちがよく犯すような過ちを犯しただけで……でも、本当に愛しているのは、あなただけなんです」
滑稽だと、神崎夕凪は思った。だが目の端に映ったのは、女性秘書を満足げに見つめる布川和馬の顔だった。あたかも、彼女の芝居に合格点を与えているかのように――。
下腹部が鈍く痛みはじめ、夕凪はこれ以上この茶番に付き合う気はなかった。病院に向かおうと身を翻したその瞬間、布川和馬が手を伸ばして彼女の腕をつかんだ。そして女性秘書のほうへ視線を移し、冷ややかに言い放つ。
「どうやら、君の誠意は足りなかったようだ。うちの奥様は、君を許す気などないらしい」
女性秘書は唇を噛みしめながら、布川和馬の氷のような視線を背に、裸同然の姿で部屋を出ていった。神崎夕凪は目を見開き、まるで現実とは思えない光景に息を呑む。
布川和馬はすでに服を整えており、ゆっくりと夕凪へ歩み寄ってくる。その瞳に浮かぶのは、寸分の濁りもない愛情――まるで先ほど浮気現場を押さえられたのが彼ではないかのように。
「夕凪。俺の心の中にいるのは、君だけだ。君を傷つけるような相手は、絶対に許さない」
神崎夕凪は怒りに震え、足元から力が抜けてしまった。もう、自分の力では歩けない。ただ、布川和馬の腕に抱きとめられるまま、身を預けるしかなかった。声を振り絞って、神崎夕凪は彼を責めた。
「始まりは……あなたでしょ」
「夕凪、それは違うよ。 僕は君の夫だ。君と僕は一心同体。だから、君を傷つけないために、僕はこうするしかなかったんだ。だけど――あの丘村晴香なんて、何の価値がある? 君を不快にさせたなら、その代償は払ってもらうしかないだろう」
そう言いながら、布川和馬は神崎夕凪の唇の端に口づけた。それはかつて、神崎夕凪が何よりも愛していた仕草だった。拗ねたときも、怒ったときも、彼はこうして優しくついばみ、気づけば彼女の機嫌を直していた。
けれど今――彼の口もとからは、他の女の匂いがした。その瞬間、神崎夕凪の視界が真っ暗になった。そして彼女は、ゆっくりと意識を手放した。
神崎夕凪が目を覚ましたのは、二人の看護師のひそひそ声がきっかけだった。
「聞いた? 布川夫人が入院したの、旦那と女性秘書がベッドにいるとこ見ちゃったからなんだって。 ショックでその場で倒れたらしいよ」
「でも布川社長、奥さんのためにその女を全裸で街中歩かせたんだってさ。いや〜、あれはエグい」
「それでも布川夫人は運がいいよね。親もいないのに、あんな完璧な男捕まえるなんて、前世でよっぽど徳を積んだんじゃない?」
輸液ボトルを取り替えた彼女たちは、そのまま何事もなかったように部屋を後にした。神崎夕凪は、ゆっくりと目を開け、苦笑を浮かべた。
――運が、いい?
そう思っていた時期も、確かにあった。布川和馬は、財も容姿もすべてを持ち合わせていて、ロマンチストで優しい。まさに、理想そのものの男性だった。だからこそ、何度も訊いたのだ。(私は前世で、いったいどれだけ徳を積んだら、あなたと出会えるの?)と。
布川和馬は彼女を抱き上げ、その逞しい太腿の上に跨らせると、まるで蜜を含んだような甘い声で囁いた。
「きっと前世で相当な徳を積んだから、君を嫁にもらえたんだな」
その言葉がまだ耳に残る中、次の瞬間、彼の姿は丘村晴香のSNSに現れた。
【まったくもう、さっきまで泣かせといて、すぐにすり寄ってくるんだから。でも、こんなにイケメンで優しいから……許してあげる♡】
あの手が、涙を拭ってくれたあの手が、マッサージしてくれたあの手が――今は別の女のために海老を剥いていた。真っ赤な油が婚約指輪の青いダイヤに飛び散り、汚れて、目に刺さるほどだった。
彼女は痛みに耐えながら点滴針を引き抜き、大きくなったお腹を抱えて病院を出る。向かったのは、亡き両親が生前暮らしていた、あの古びた家だった。
けれど、建物の下に立った瞬間、またしても布川和馬のことが頭をよぎる。
この家から彼に連れ出された日のことを思い出す。
あの日、彼はこう言った。
「君の前半生はご両親が育ててくれた。これからの後半生は、俺が守る」
――けれど、その“後半生”が、こんなにも短いものだとは知らなかった。
狭くて暗い階段を一段ずつ登りながら、ようやく扉を開けたそのとき、目に飛び込んできたのは、布川和馬が丘村晴香の腰を抱き寄せ、強引にキスを交わす光景だった。
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