
あの人の未来に、私はいない
章 3
「出ていって!」
神崎夕凪は涙を流しながら怒鳴った。ここは彼女の家、幼い頃の幸せな記憶が詰まった、大切な我が家なのだ。
ソファの上のクッションを掴んで二人に向かって投げつけようとしたその瞬間、布川和馬の大きな手がそれをあっさり奪い取った。
「夕凪、落ち着け。晴香は君の代わりに家を見てくれていただけなんだ」
「私の家に見張りなんていらない……出てって、二人とも今すぐに!」
神崎夕凪は、妊娠八ヶ月の大きなお腹のことなど気にも留めず、前に出て二人を押し返そうとした。
布川和馬の身体は大きくてびくともしなかったが、丘村晴香はそうはいかなかった。身長164センチの華奢な彼女は、170センチの神崎夕凪に押されてそのまま床に倒れ、後ろにあったダイニングテーブルに身体をぶつけた。テーブルの上に置いてあったものがガシャンと音を立てて崩れ落ち、そのまま丘村晴香の上に降りかかる。 けれど丘村晴香は一言も声を上げなかった。弱々しく見えて、どこか芯のあるその姿が布川和馬の胸に刺さる。彼は神崎夕凪の手首を掴み、冷たい声で言い放った。
「晴香はもう、償うべきことは償った。君はそれでも責め続けるつもりか?」
神崎夕凪はその言葉に、数秒だけ呆然とした。しかしすぐに、表情を引き締める。
あの日、丘村晴香を罰したのは、神崎夕凪のために怒りをぶつけたわけじゃなかった。むしろ、彼女に道を用意するためだった。全裸を衆目にさらされる以上の屈辱があるだろうか? いや、あれ以上の罰はなかったし、これからも現れることはない。
神崎夕凪の瞳に宿っていた哀しみは、やがて凍てついた冷たさへと変わる。布川和馬を真っすぐに見つめ、きっぱりと口を開いた。
「離婚しましょう、布川和馬。布川夫人の座は、あなたの大切な人に譲るわ」
布川和馬の眉間に深い皺が寄る。
「夢でも見てるのか、神崎夕凪。俺の辞書にあるのは“死別”だけで、“離婚”なんて言葉はない」
その言葉が落ちた瞬間、神崎夕凪の目尻から涙がすっとこぼれ落ちる。布川和馬の胸に痛みが走る。慰めの言葉をかけようとしたが、すぐに思いとどまった。彼女はいつも穏やかで寛容だったのに、こんな些細なことで騒ぎ立て、彼の平穏を奪った――そう思えば、冷たくするしかなかった。
「よく考えておけ。あとで運転手に迎えに行かせる」
「それから……この家の名義は俺だ。俺が決めることだ」
そう言い残し、彼は丘村晴香を腕に抱き、背を向けて去っていった。
廊下が再び静けさを取り戻すのを待ってから、神崎夕凪はようやく顔を上げた。目の前に広がる部屋は、もはや見覚えのある姿ではなかった。両親が遺した古い家具はすべて消え失せ、代わりに置かれていたのは、どれも現代的な意匠のものばかり。布川和馬は、丘村晴香にこの家を好き放題させたのだ――彼女の大切な場所を、壊させたのだ。
涙が止まらなかった。
あの日、両親が突然この世を去り、ローンが残るこの家だけが手元に残された。支払いの滞納が続き、銀行が差し押さえに来たとき、神崎夕凪は膝をつき、頭を下げて懇願した。ただ、この家だけは奪わないでと。そのとき、布川和馬と出会った。
彼は神崎夕凪に一目惚れしたが、彼女が十八歳に満たないことを理由に、すぐには手を出さなかった。代わりに、滞納分のローンを肩代わりし、それを知られぬよう、あたかも自分がこの家を買い取ったかのように装ってみせた。神崎夕凪は「借りている」身のまま住み続けたが、実際には一度も家賃を求められたことはなかった。十八歳の誕生日の夜、布川和馬はついに想いを告げた。神崎夕凪はすべてを許し、すべてを捧げた。その日からふたりは恋人となり、彼の家で暮らし始めた。
布川和馬はこの家を彼女の名義にするとまで言ってくれたが、神崎夕凪は首を振った。
「私は、この家をあなたが私に遺してくれた証として、ずっと覚えている。これは、あなたが私を愛してくれた形そのものだから」
当時の彼女は、きっと想像もしなかったのだ。五年後の今日――布川和馬が、名義は自分であることを理由に、この家に別の女を住まわせるなんて。
神崎夕凪には、どうして布川和馬の心が変わってしまったのか、さっぱり分からなかった。ふと視線を落とすと、ソファの下に父母の写真が落ちているのが見えた。胸がぎゅっと痛んで、拾い上げようとしたが、大きなお腹では腰をかがめることすら叶わない。
込み上げる悔しさと哀しみが堰を切ったようにあふれ出し、彼女は再び声を上げて泣いた。
夫はもういない。家庭も壊れかけている。両親が遺してくれた、たった一枚の写真――それだけは、どうしても失いたくなかった。
しゃがめないなら、せめて膝をつくしかない。床に膝をついた瞬間、かつて割れたガラスの破片が皮膚に深く刺さり、神崎夕凪の顔色は一瞬で真っ青になった。腹部に鈍い張りが走る。彼女は必死に呼吸を整えながら、119に電話をかけた。
救急車を待つあいだ、布川おばあ様の番号を押した。
「おばあちゃん……あのときの賭け、まだ有効ですか?」
受話器の向こうから、ふっと笑う気配が伝わってきた。
「もちろんよ。ただし、あなたは今、布川家の血を宿している。行きたいなら、産んで、産後のケアを終えてから。私がきちんと送り出してあげるわ」
電話を切った神崎夕凪の脳裏に、結婚前夜の出来事がよみがえった。あのとき布川和馬の祖母――布川おばあ様が彼女を訪ねてきて、こう持ちかけたのだ。「和馬がいつ心変わりするか、賭けをしませんか?」
神崎夕凪はあっけらかんとした顔で、迷うことなく答えた。「和馬さんは、絶対に裏切ったりしません」
布川おばあ様は穏やかに微笑み、首を横に振った。「男っていうのはね、本質的に冷たい生き物なの。三年保てば上出来よ。そのときは、布川家全体を説得して、あなたを正式に迎え入れてもいい。
でも、もし三年もたなかったら……あなたのほうから和馬を離れてちょうだい。私たちは、家の格に見合った新しい相手を探すから」
神崎夕凪は、その申し出を潔く受け入れた。
今となっては、あまりに皮肉だ。もうすぐ三周年の記念日だというのに、そして運命なら、その前後に赤ちゃんも生まれてくるはずなのに。
けれど――布川和馬は、それすら待てなかった。
医師が駆けつけたとき、神崎夕凪はすでに痛みで呼吸もままならず、吐く息ばかりで吸う余裕もなかった。簡単な内診ののち、すでに赤ん坊の頭が見えていると告げられた。
設備はお粗末で、衛生状態も決して良いとは言えない。それでも、神崎夕凪は病院にたどり着ける状態ではなかった。応急的に消毒を済ませ、医師の指示に合わせて必死に力を振り絞った。それから三十分後、部屋の中に甲高い産声が響いた。
神崎夕凪は胸に抱いた小さな、しわくちゃの命を見つめ、目に涙を浮かべながら笑った。
「パパ、ママ……あたし、この家で生まれたんだよ。ぐるっと回って二十三年。いま、あたしの子も、ここで産まれたよ」
「天国にいるふたりが、願いを叶えてくれるって信じてる」
――この子を連れて、無事に布川家を出られますように。
その知らせを受け、布川家の祖母が専門の医療チームを連れて急ぎ駆けつけた。その頃には、赤ちゃんは神崎夕凪の胸に顔を埋め、おっぱいを吸っていた。
祖母は冷ややかな眼差しを向け、一言だけ告げた。
「お宮参りの日に、送り出す手配をしておくわ。2億円のカードも渡す。それっきり――二度と戻ってこないことね」
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