
夫と愛人、裏切りの微笑み
章 2
桐山葵 視点:
乱暴に引き裂かれた私の衣類が, 床に散らばる.
その布地が擦れる音が, 耳障りに響いた.
それはまるで, 私の心が粉々に砕け散る音のようだった.
彼の行為は, ただの暴力ではない.
それは, 私の存在そのものを否定する, 破壊行為だった.
私は, 彼の重みに押し潰されながら, 呼吸もままならない.
体中の関節が軋み, 皮膚が焼けるように熱い.
昨夜からの不調に加え, 彼からの暴力が, 私の体を蝕んでいく.
この痛みは, 私の心に深く刻み込まれた, 消えない傷となるだろう.
彼は私を, 何時間も弄び続けた.
その間, 私の意識は朦朧とし, 現実と悪夢の狭間を彷徨った.
まるで永遠にも思える時間が過ぎ去り, 彼はようやく私の体から離れた.
私は, ただ横たわっていることしかできなかった.
次に意識が浮上したのは, 窓の外が薄明るくなっていたからだ.
カーテンの隙間から差し込む朝日は, 昨日までの日常が, もう戻らないことを告げているようだった.
重い体を起こし, まるで何かに操られているかのように, 私はゆっくりとバスルームへと向かう.
浴室に入ると, 鏡に映った自分の姿に, 思わず息を呑んだ.
全身に, 昨夜の彼の暴力の痕跡が残っていた.
青紫色のアザが, 白い肌に痛々しく浮かび上がっている.
喉の奥から, 苦いものが込み上げてきた.
シャワーを浴びていると, ふと, 洗面台の横に置いてあるはずの, 私のヘアアクセサリーがないことに気づいた.
結婚当初, 真史が私に贈ってくれた, お気に入りの桜の花を模した髪飾りだ.
どこにやったのだろうか.
私は首を傾げた.
バスルームを出て, 寝室に戻ろうとした通路の角で, 私は息を止めた.
リビングルームから, 聞き慣れた声が聞こえてきたのだ.
それは, 真史と, もう一人の女の声.
まさか, 桜歌奈が, 朝からここに?
私の心臓が, 痛いくらいに脈打った.
こんな状況で, 彼女と顔を合わせるなんて.
私は無意識のうちに, 大きく目を見開いていた.
彼が, 彼女を, この家に連れてきた.
私のいるこの家に.
案の定, リビングルームには, 真史と桜歌奈がいた.
桜歌奈は, 私に気づくと, 薄っすらと笑みを浮かべた.
その笑顔は, 純粋な少女のそれとはかけ離れた, 冷淡なものだった.
「あら, 葵姉さん. おはようございます. 随分と, お目覚めが遅かったのね」
彼女の声は, まるで私を嘲笑っているかのようだった.
体中の痛みが, 再び私の意識を支配する.
胃の奥から, 吐き気がこみ上げてきた.
しかし, ここで倒れるわけにはいかない.
私は, 震える足に力を込め, まっすぐに桜歌奈を見据えた.
私の意志は, 揺るがない.
「真史さん」
私は, 真史に向かって, はっきりと言葉を発した.
「離婚届にサインしてください」
真史は, 私の言葉を聞くと, 鼻で笑った.
その顔には, 深い軽蔑の色が浮かんでいる.
彼の視線は, まるで私を下等な虫でも見るかのように, 冷たく私を射抜いた.
「またその手か, 葵. いい加減, 飽き飽きする」
彼の声には, うんざりしたような響きが含まれていた.
私は, 彼の言葉に反論する気力さえ失っていた.
私の言葉は, 彼にとって, ただの策略にしか聞こえないのだろう.
私は, 唇を噛み締める.
「あなたが私を信用しないのは, いつものことでしょう」
私の声は, 自嘲気味に響いた.
真史は, 私の言葉を無視するように, 桜歌奈の髪を優しく撫でた.
その仕草は, まるで彼が私を完全に無視し, 桜歌奈にしか興味がないことを示しているようだった.
彼の目は, もはや私を捉えていなかった.
私たちは, リビングルームで, まるで時間が止まったかのように, ただ立ち尽くしていた.
時計の針の音が, やけに大きく響く.
この沈黙は, 私を窒息させそうだった.
どれくらいの時間が経ったのだろう.
数秒か, それとも数分か.
真史は, 突然, 重い口を開いた.
「葵, お前は深沢家の人間だ」
彼の声は, 冷たく, 有無を言わさない響きを持っていた.
そして, 彼はゆっくりとソファから立ち上がると, 桜歌奈の手を引いて, 部屋を出て行こうとした.
その時, 執事が慌てた様子でリビングルームに入ってきた.
「旦那様, 深沢会長がお呼びでございます. すぐにお会いしたいと」
執事の言葉に, 真史の顔色が変わった.
彼は, 不機嫌そうに舌打ちをする.
真史は, 私が離婚を切り出す前から, 桐山流の家元の娘である私との結婚を利用して, 会長の信頼を得ようとしていた.
彼の目的は, 深沢テックの次期社長の座だったのだ.
私が離婚を要求すれば, 深沢家との繋がりが揺らぎ, 彼の地位も危うくなる.
だから, 彼は私を手放そうとしない.
私のためではなく, 彼自身の都合のために.
私は, 彼の本心を知って, 深い絶望に打ちのめされた.
私が彼の元を去ろうとすると, いつも彼は私を引き止めようとした.
私は, 彼が私を愛しているからだと, 心のどこかで期待していた.
だが, それは私の幻想だった.
彼が求めていたのは, ただの「道具」としての私だったのだ.
一体, 何の意味があるのだろう?
こんな偽りの関係を続けて.
私は, 自問自答を繰り返す.
この結婚は, 私自身の存在価値さえも, 揺るがしかねない.
桐山流の家元の娘であるという, その肩書きが, 真史を深沢テックの次期社長に押し上げる.
皮肉なことに, 私の存在が, 彼に力を与えている.
そのことで, 真史は私を一層, 疎ましく思うようになったのだろう.
私たち二人の苦しみは, どちらがより深いのだろうか?
真史は, 私を利用し, 私を傷つけることで, 彼の野心を満たしている.
私は, 彼に利用され, 傷つけられることで, この偽りの関係を維持している.
どちらも, 地獄だ.
桐山家と深沢家の関係は, ますます強固なものになっていく.
それは, まるで切り離せない鎖のように, 私たち二人を縛りつけていた.
私たちが, どれほど努力しても, この関係が良好になることはなかった.
常に, 桜歌奈という存在が, 私たちの間に立ちはだかっていたからだ.
もう, 穏便に別れることなど, 不可能だ.
真史は, 私を手放さないだろう.
私の存在が, 彼にとって都合の良い道具である限り.
私は, 彼のために, 桜歌奈との関係を成就させる手助けをしよう.
それが, 私にできる, 最後の償いだ.
私は, 真史の野心を満たし, 桜歌奈を彼の元へと導く.
それが, 彼らへの最後の贈り物になるだろう.
そして, 私は, この偽りの関係から解放される.
私は, 窓辺に立ち, 外を眺めた.
庭園の桜の木が, 満開の花を咲かせている.
ピンク色の花びらが, 風に揺れて, 静かに舞い落ちる.
美しい光景だった.
しかし, 私の心は, その美しさを感じることができなかった.
私の心は, 凍りついていた.
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