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彼の秘められた跡継ぎ、彼女の逃亡 の小説カバー

彼の秘められた跡継ぎ、彼女の逃亡

画家として念願だった初の個展。その輝かしいオープニングの夜、夫は私の隣に現れなかった。彼がどこで何をしていたのか、私は残酷な形で知ることになる。テレビのニュース画面の中で、夫は無数のフラッシュを浴びながら、別の女性を熱心に守っていたのだ。ギャラリー中の視線が突き刺さる中、私の世界は音を立てて崩壊した。追い打ちをかけるように届いたのは、「佳菜子さんが俺を必要としている。君なら一人でも大丈夫だろう」という冷酷なメッセージ。夫は数百億円規模の企業を築き上げたが、その礎が私の芸術であったことなど忘れ去り、長年私の活動を「趣味」と蔑んできた。私は彼にとって、もはや存在しないも同然だったのだ。これ以上の屈辱に耐えるつもりはない。私は弁護士に連絡し、夫の傲慢さを利用したある計画を打ち明けた。私を会社から追い出すためなら、彼は中身も見ずに書類に署名するはずだ。私は離婚届を退屈な知的財産の許諾書類に偽装し、彼に突きつける決意を固めた。静かな復讐と、自由への逃亡がここから始まる。
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有栖川 詩織:Side

翌朝、トートバッグに入った分厚い茶封筒が、氷の塊のように感じられた。

私は一条夫人としての地位を最後にもう一度だけ使い、ICHJO.techのロビーへと足を踏み入れた。

空気は冷たく無機質で、金と野心の匂いがした。

蓮の秘書である佐藤さんがデスクから顔を上げた。その表情には、いつものようにストレスと同情が混じり合っていた。

「奥様。社長は、川島様とご一緒です」

「知ってる」私は歩みを止めずに言った。「すぐ終わるから」

すりガラスの向こうから、二人の声が聞こえてきた。

笑い声だった。

気楽で、親密な響き。

もう彼が私には決して向けない種類の、笑い声。

私はノックもせずにドアを押し開けた。

彼らは、別にやましいことをしていたわけではなかった。

巨大なデスクに置かれた事業計画書を二人で覗き込み、佳菜子さんの手が彼のアームに置かれているだけ。

でも、その親密さが、私の息を奪った。

彼らが一つのチームであり、一つのユニットであるという事実が。

二人は驚いて顔を上げた。

蓮の顔は、罪悪感ではなく、苛立ちで瞬時に硬くなった。

私は、邪魔者だった。

「詩織」彼の声は短く、刺々しかった。「今、取り込み中なんだ」

佳菜子さんはすっと体を起こし、完璧な同情の仮面を顔に貼り付けた。

「詩織さん、ごめんなさいね、昨日のこと。この買収案件が本当に大変で。蓮さんがいてくれて、本当に助かったわ」

彼女は、自分の重要性と、私の無価値さを、巧みに私に思い出させていた。

「そうでしょうね」私は平坦な声で言った。そして、まっすぐに夫を見つめた。「サインが一つ欲しいだけ。そうしたら、すぐに出ていくから」

私はデスクまで歩いていき、彼の前に封筒を置いた。

バサリ、と柔らかくも決定的な音がした。

「なんだ、これは?」彼は疑わしげに目を細めて尋ねた。

「IPの許諾書よ」嘘は、滑らかに、プロフェッショナルに出てきた。「ギャラリーがデジタルカタログ用に包括的な許諾を必要としてるの。『エーテル』の初期のコンセプトアートがたくさん展示されてるから」

彼はそれを手に取り、重さを確かめるように持った。

役員会議では人間嘘発見器のような彼が、この私を見透かすのではないかと、一瞬、恐ろしい考えがよぎった。

彼はペンで封筒をトントンと叩き、鋭い視線を私の顔に固定した。

私は彼の視線を受け止め、逸らさなかった。

傷ついた心のすべてを、冷たくプロフェッショナルな平静さへと注ぎ込んだ。

彼が封筒を開ける前に、佳菜子さんが見事に割って入った。

「蓮さん、取締役会が電話を待ってるわ」彼女の声には、切迫感が滲んでいた。「これは、後でもいいんじゃない?」

彼女は正しかった。

彼の世界では、これは些細なこと。

私の「趣味」の書類と、数百億円の取引。

彼は封筒から佳菜子さんへと視線を移し、決断はすでについていた。

「そうだな」と彼は唸った。

苛立ちを隠しもせず、彼は乱暴に封筒を破り、書類の束を取り出すと、まっすぐ最後のページをめくった。

二十ページにも及ぶ離婚合意書には、一瞥もくれなかった。

彼は最後のページの上部にあるタイトルを見た。『合意および署名』。

彼は署名欄に自分の名前を殴り書きした。

鋭く、怒りに満ちた黒いインクの斬撃。

息が喉に詰まった。

彼が二度見する前に、私は手を伸ばし、署名された紙を抜き取った。

「お時間をいただき、ありがとうございました」

私が背を向けて去ろうとすると、佳菜子さんは小さく、見下すような笑みを浮かべた。

勝者が敗者に向ける、あの種類の笑みを。

私はオフィスを出て、ビルを出て、二度と振り返らなかった。

エレベーターの中で、私は握りしめた紙を見下ろした。

彼の署名。

終わった。

彼は、自分の結婚生活に終止符を打った。

そのことに、気づきもしないで。

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