
彼の秘められた跡継ぎ、彼女の逃亡
章 3
有栖川 詩織:Side
あのガラスの塔を出た時、吐き気がするのか、笑いがこみ上げるのか、自分でも分からなかった。
だから私はただ歩き続けた。署名された離婚届が、バッグの中で秘密の炎のように燃えていた。
私は自由になった。
そして、恐怖に震えていた。
ペントハウスに戻ると、一通のメールが届いていた。
それは、まるで啓示のようだった。
数週間前に私が自分自身に投げた救命ロープが、今、投げ返されてきたのだ。
差出人:浅間山麓アーティスト・イン・レジデンス
件名:ご応募について
有栖川 詩織 様
この度は、秋期プログラムへのご参加を心より歓迎いたします。あなたの作品は、選考委員会の満場一致でのお気に入りでした。48時間以内にご決断をお願いいたします。レジデンスは2週間後に開始となります。
二週間。
新しい人生への、14日間のカウントダウン。
迷う前に、私は返信を打ち込んだ。
『喜んでお受けいたします』
私は長野行きの片道航空券を予約した。
そして、私が捨て去ろうとしている人生から、自分自身を消し去る作業を始めた。
それからの数日間は、ぼんやりとしたまま過ぎていった。
本当に私のものだった数少ないもの本、服、画材を荷造りし、トランクルームに送った。
残りは、ただの舞台装置だった。
一度も心地よいと感じたことのないデザイナーズドレス、私が選んだわけでもない冷たい家具。
それらを置いていくのは、簡単だった。
しかし、奇妙な疲労感が骨の髄まで染み渡っていた。
ストレスのせいだ、と自分に言い聞かせた。
一週間後、画材店で棚に掴まらなければ立っていられないほどの吐き気に襲われた時も、風邪だと思い込もうとした。
そして、計算した。
生理が、遅れている。
冷たく、吐き気を催すような恐怖が、私を襲った。
まさか。ありえない。
私は木炭と一緒に、妊娠検査薬を買った。
手がひどく震えて、レジで支払うのもやっとだった。
この街で唯一、本当に私のものだった場所。
唯一、安全だと感じられたアトリエに戻った。
検査薬を使い、小さなプラスチックのスティックを洗面台の縁に置いた。
三分間。
私は二十四時間足らずで自分の結婚生活を解体したというのに、今、まだ彼に鎖で繋がれているかどうかを知るために、三分間も待たなければならなかった。
心臓が、狂ったように、恐怖のリズムを肋骨に打ち付けていた。
お願い、やめて。お願いだから。
スマートフォンのタイマーが鳴った。
深呼吸をして、見た。
二本のピンクの線。
紛れもない、陽性の印。
世界が傾いた。
私はよろめき、足の力が抜け、スツールに崩れ落ちた。
妊娠。
数週間前の、蓮との最後の夜の記憶が蘇る。
それは愛の行為ではなかった。
冷たく、無関心な、義務だった。
そして今、それは一つの命になった。
有栖川 詩織として再出発するという、私のシンプルな計画は、今、完全に粉砕された。
私はもう、彼から逃げているだけではなかった。
私は、彼の子供を隠しているのだ。
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