
彼の裏切り、私のマフィア復讐
章 2
白鳥 亜紀 POV:
結菜がおろおろとシャツの一番上のボタンに指をかけた、まさにその時、慎吾が入ってきた。彼の暗く、荒れ狂うような瞳が、私を捉えた。
「一体、何をしてるんだ、亜紀」
彼は唸るように言った。
「この家の尊厳を、少し取り戻しているだけです」
私は、パニックに陥った結菜の顔から目を逸らさずに答えた。
「お前は妊娠中の、悲しみに暮れる女を追い詰めている。組の結束を乱しているんだ」
彼の声は低く、かつてなら私を縮み上がらせたであろう危険な響きを帯びていた。だが今は、私の血管を流れる氷を、さらに燃え上がらせるだけだった。
彼は私たちの間に割って入り、結菜の肩に庇うように手を置いた。
「彼女は誠の子を身ごもっている。俺が彼女の面倒を見るのは当然の務めだ。お前もそれを理解しろ。少しは思いやりを見せろ」
その偽善には、吐き気がした。務め。彼は私たちの誓いを、家族の絆を、私の目の前で踏みにじりながら、務めという言葉を口にする。
「ええ、完璧に理解していますわ」
私の声は鋭かった。
「あなたはご自分の優先順位を明確に示された。だから私も、私の優先順位を明確にします。離婚していただきます」
その言葉は、重く、衝撃的に、空中に漂った。私たちの世界では、結婚は神聖なもの。家と家を結ぶ契約だ。離婚は、戦争の宣言に等しい。
慎吾の顔がこわばった。一瞬、彼が私たちの間に開いた深淵を、本当に目にしたのかと思った。
だが、彼は鼻で笑った。
「馬鹿なことを言うな。感情的になってるだけだ」
彼は侮蔑するように手を振った。
「新しい車が欲しいのか?買ってやる。別の家が欲しいなら、好きなのを選べ」
彼は私の沈黙を、服従を、金で買えると思っていた。彼はもはや、自分が誰を相手にしているのか、全く分かっていなかった。彼はまだ、私がかつて演じていた少女の亡霊に話しかけているのだ。
その時、結菜の演技が始まった。一筋の涙が彼女の頬を伝う。下唇が震える。
「ああ、慎吾さん」
彼女は、作り物の悲しみに詰まった声で囁いた。
「全部、私のせいです。私がお二人の仲を……。私は、出て行った方が……」
それは見事なまでの揺さぶりで、慎吾は完全にそれに引っかかった。
「いや」
彼は即座に声を和らげ、彼女に全ての注意を向けた。彼は彼女を優しく抱きしめる。
「どこにも行かせない。彼女の言うことなんか気にするな。ただ、取り乱しているだけだ」
彼は結菜の頭越しに、非難に満ちた目で私を睨みつけた。彼は、自分の妻から、愛人を守っていた。
冷たく、的確な怒りが、声になった。
「昨夜、私のキッチンで彼女の足を揉んでおきながら、よくもそんな風に彼女を慰められますわね?」
言葉は静かだったが、物理的な打撃のように彼を打ちのめした。
結菜は、彼の決意が揺らいだのを感じ取り、さらに賭けに出た。静かな涙は、震えるような嗚咽に変わった。
「私、ここにはいられません」
彼女は彼の胸に顔を埋めて泣いた。
「あなたの結婚が壊れる原因になんてなれない。私、行きます。赤ちゃんは、一人で育てますから……」
完璧な一手だった。去るという脅し、死んだ弟の最後の形見を連れて行くという脅しは、彼の見当違いな庇護欲を確固たるものにした。
彼は彼女をさらに強く抱きしめた。私がまだこの部屋にいるという事実を、完全に無視して。私の顔に刻まれた痛みも、私の声に含まれた決別の響きも、すべてを無視して。
「ここがお前の安息の地だ、結菜」
彼は低い約束の声で、彼女に囁いた。
「ここがお前の家だ。お前は絶対に、絶対にどこにも行かない」
それは、最後の侮辱だった。彼は彼女に、私の家を、私の夫を、私の人生を与えてしまった。
彼は私を見ようともしなかった。ただそこに立ち、彼女の髪を撫で、慰めの言葉を囁き続ける。その瞬間、私は彼の妻ではなかった。私は、そこにさえいなかった。
そしてその瞬間、妻としての白鳥亜紀は死んだ。そして、血の報復の準備ができた、棘を持つ薔薇としての白鳥亜紀が、完全に生まれたのだ。
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