
彼の34回目の意図せざる裏切り
章 3
退院した日、私は家には帰らなかった。タクシーでまっすぐ西園寺家の屋敷に向かった。
書斎で西園寺氏を見つけた。革張りの本が並び、古い紙と罪悪感のかすかな匂いがする、壮大な部屋だった。
「西園寺さん」
私は落ち着いた声で言った。
「蓮さんとの婚約を、解消させてください」
彼は書類から顔を上げ、純粋な驚きの表情を浮かべた。
「詩織くん?一体どうしたんだ?蓮が何か君を怒らせるようなことでもしたのか?」
私は、そこに浮かんでいるであろう苦々しさを隠すために、目を伏せた。
「いいえ」
私は嘘をついた。
「彼のことではありません。もうすぐ母が刑務所から出てきます。母を連れて、どこか別の場所で新しい生活を始めたいんです」
それが、彼が疑問を抱かずに受け入れてくれるであろう、唯一の言い訳だった。
彼は長い間、私の顔をじっと見つめていた。その顔には、見慣れた悲しみが刻まれていた。
「そうか」
彼はついに言った。
「それが君の本当に望むことなら、私は引き止めない。秘書に、君と君のお母さんのために十分な資金を用意させよう。せめてもの償いだ」
「ありがとうございます」
私は囁き、安堵の息を漏らした。
その時、書斎のドアが勢いよく開いた。
「誰が出ていくって?」
蓮だった。彼は戸口に立ち、鍵を指で揺らしながら、何気ない笑みを浮かべていた。
「詩織を迎えに来たんだ。一緒に家に帰ろうと思って」
彼は言った。
彼の父親が何か言う前に、私は素早く答えた。
「母の話をしていたんです。もうすぐ出所するので」
蓮の笑みは崩れなかった。彼は、自分の世界がもうすぐ変わろうとしていることに、全く気づいていなかった。
「父さん、詩織と俺、夕食を食べていくよ」
彼はそう言って、私の肩に腕を回した。その感触に、私はびくりと身をすくめた。
夕食は、苦痛な時間だった。献身的な婚約者を演じる蓮は、習慣的に私の好物を皿に乗せてくれた。その一つ一つの仕草が、今では嘘だと知ってしまった愛の、痛々しい思い出を呼び起こす。かつては、これらの小さな習慣が彼の愛情の証だと思っていた。今では、義務を果たす男の空虚な動きにしか見えなかった。
「いいニュースがあるんだ」
蓮は父親に向かって、陽気に言った。
「結婚式の会場、再予約できたよ。来月、やっと結婚できる」
私は凍りつき、フォークが皿に当たってカチャンと音を立てた。
西園寺氏は、息子と私を交互に見て、眉をひそめた。
「蓮、それは問題かもしれない。詩織くんは、結婚を取りやめたいと、さっき言っていたんだ」
空気が、緊張で重くなった。
タイミングよく、蓮のスマホが鳴り、重い沈黙を破った。
彼は画面をちらりと見た。佳玲亜からだった。
テーブルの向こうからでも、彼女の弱々しく、涙ぐんだ声が聞こえた。熱がある、一人で怖い、と。
蓮はスマホを握る手に力を込めた。
「どこにいる?今すぐ行く」
彼の声は、切迫感で張り詰めていた。
彼は電話を切ると、椅子から立ち上がった。さっきまでの上機嫌は消え失せていた。
「なんで結婚式をキャンセルしたいんだ?」
彼は私に尋ねた。その口調は、上の空で、焦っていた。
私が答える前に、彼は首を振った。
「まあいい。後で話そう。緊急なんだ」
彼はダイニングルームを駆け出し、椅子の脚が床を激しく擦る音がした。
私は彼の後ろ姿を見つめた。胸には、見慣れた痛みが広がっていた。彼は私を愛していない。それは、痛いほど明らかだった。
西園寺氏に丁寧だが短い別れを告げた後、私は屋敷を出て、まっすぐ刑務所に向かった。
母は、記憶の中よりも老け、弱々しく見えた。白髪が増え、かつてはあんなに輝いていた目が、心配で曇っていた。
「詩織、愛しい子」
彼女は、面会用の電話越しに、かすれた声で言った。
「元気?西園寺さんたちは、よくしてくれてる?」
私は無意識に袖を引き下げ、腕の新しい痣を隠した。
「とてもよくしてくれるわ、お母さん」
私は明るい笑顔を無理に作りながら言った。
「全部、大丈夫」
「結婚式は?」
彼女は、悲しげな笑みを浮かべて尋ねた。
「バージンロードを歩くあなたを見られないなんて、本当にごめんなさいね」
喉の奥に、大きな塊が詰まったような気がした。
「実はね、お母さん……私、結婚しないの」
彼女の笑みが消えた。
「え?どうして?」
「ここから連れ出してあげる」
私は、こらえきれない涙で声をつまらせながら言った。
「二人で、どこか新しい場所へ行くの。やり直しましょう」
彼女は私を見つめた。その目には、深く、胸が張り裂けるような痛みが満ちていた。私が何も言わなくても、私が傷ついていることを、彼女は知っていた。
「わかったわ、ベイビー」
彼女は囁き、一筋の涙が頬を伝った。
「あなたが望むなら。お母さんは、あなたと一緒に行くわ」
私は蓮と暮らしていた家に戻った。そこは冷たく、空っぽで、決して本物ではなかった人生の博物館のようだった。
私は荷造りを始めた。自分の持ち物を、 методично に整理していく。本当に自分のものだけを持っていく。西園寺家がくれた服も、宝石も、車も――すべて、置いていった。
その夜、蓮は帰ってこなかった。
彼が帰ってきたのは、翌日の午後遅くだった。
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