
冷遇令嬢、実は天才。婚約破棄した彼らにざまぁ!
章 2
「あり得ないわ!」 継母の山口梓が、弾かれたように立ち上がった。
父の山口尚矢もひどく狼狽え、「……何かの間違いではないのか?」と声を上ずらせた。
山口家は元々、桜井陽葵の実母である桜井理恵が遺した伝説的な薬の処方と、その卓越した医術によって財を成した。だが、理恵が亡くなって以来、その基盤は脆くなる一方で、高木家という大樹に攀りつくこの縁談は、彼らにとって絶対に失敗できない生命線だったのだ。
陽葵も山口家の娘ではある。だが、彼らにとって意味が違う。大切な宝物は、娘の山口莉子ただ一人なのだ。
固く握りしめられた拳が、内心の焦りを裏切っている。それでも莉子は、必死に優雅な令嬢を装った。「お父様、お母様、落ち着いてくださいませ。きっと、何かの誤解ですわ」
「いえ、システムには確かに、そのように登録されております」 職員は再度確認し、きっぱりと告げた。
一同がノートパソコンの画面を覗き込むと、そこには疑いようのない事実が映し出されていた。高木峻一と桜井陽葵は夫婦関係にあり、登録日は二年ほど前のある日、場所は漣国。陽葵が十八歳の時のことである。
尚矢と梓は、ただただ呆然と目を剝くばかりだった。
莉子はついに平静を失い、その完璧に作り上げられた「名家の令嬢」の姿は、風の中の塵のように乱れ始めた。
全員の視線が高木峻一へと一斉に突き刺さる。高木家のおじい様が、険しい顔で口火を切った。「峻一、これは一体どういうことだ?」
「……分かりません」
「分からんだと?」 おじい様は怒りに髭をぴんと逆立てた。「お前が他の女と籍を入れておいて、どうして分からんことがある!」
峻一は、すっと切れ長の目を上げ、正面に座る陽葵を見据えた。その瞳は、まるでこの世のいかなる感情も映さぬ氷鏡のように、ただただ冷え切っていた。
皆は彼の視線を追い、再び陽葵に注目した。
未だ衝撃の渦中にいる陽葵は、潔白を示すように両手を広げてみせる。「私も、知りません」
陽葵のその言葉を、しかし、疑う者は誰もいなかった。来る日も来る日も裏庭に閉じ込められ、物置小屋を住処とし、小学校すら卒業していないという醜悪な娘が、どうやって遠い漣国へ渡り、高木家の跡継ぎと結婚するなどという離れ業をやってのけられるというのか。あまりにも不釣り合いで、荒唐無稽な話だった。
「誰かの差し金に決まってるわ!」 山口梓は歯ぎしりしながら叫んだ。「真相の究明は後回しよ!吉時を逃すわけにはいかないわ。今すぐ離婚届を出させて、それから峻一様と莉子の婚姻届を出すのよ!」
「そうだ、その通りだ。婚礼が第一だ」と、山口尚矢も慌てて賛同した。
だが、その時だった。「……峻一は、莉子嬢を娶ることはできん」 高木家のおじい様は、重々しく首を横に振った。そして、決定的な一言を告げた。「高木家の男は、妻に先立たれることはあっても、自ら離縁することは許されぬ。こればかりは覆せぬ祖訓だ。よって、本日の花嫁は……桜井陽葵嬢に代わっていただく」
「そんなこと、認められるわけないでしょう!」 ついに莉子は、完璧な令嬢の仮面を自ら引き裂いた。すっくと立ち上がり、真っ赤に充血した目で吼えた。「この街の誰もが、私が!私が高木家に嫁ぐと知っているのよ!それなのに、式の直前になって、あの醜い姉に花嫁を交代させるなんて……そんなことをしたら、私はこれからどうやって生きていけばいいの!?」
梓もまた、慈愛に満ちた継母の仮面を投げ捨てていた。「汐風市一の富豪の奥方になるのは、うちの莉子です!陽葵のような小娘に、その資格がどこにあるというの!」
怒り狂う母娘の姿を眺めながら、陽葵は心の底から愉快でならなかった。
元々はどうやって高木峻一を奪い、この二人を絶望の淵に叩き落としてやろうかと画策していたところだったのだ。それがどうだろう。天から降ってきたこの結婚届のおかげで、何の苦労もせず、目的が達成されてしまった。たとえ、この結婚届の出自がいかに奇妙であろうと、今この好機を手放すつもりは毛頭ない。
陽葵は、悪戯っぽく口の端を上げると、峻一を見つめ、とろけるように甘い声で囁いた。「……旦那様。ご迷惑をおかけしますわね」
旦那様?
その一言は、まるで莉子の逆鱗に触れたようだった。彼女は獣のように吼え、陽葵に掴みかかった。「この泥棒猫!それは私の旦那様よ!あんたなんかが、そんな風に呼んでいいわけないでしょう!」
陽葵は、ひらりと身をかわして峻一の背後に隠れると、彼の肩からひょっこりと顔を出し、挑発するように言った。「莉子お姉様、お気を付けて。あなたの『名家の令嬢』というご立派な評判に、傷がついてしまいますわよ……?」
莉子は空を掴み、再び陽葵に襲いかかろうとしたが、その言葉に動きをぴたりと止めた。
そうだ、私は「汐風市一の令嬢」。感情に任せて、はしたない姿を晒してしまった。この称号を得るために、どれほどの努力を重ねてきたことか。こんなことで、全てを棒に振るわけにはいかない。
すると、さっきまで市場の喧嘩女のように荒れ狂っていた莉子は、次の瞬間には、はらはらと涙をこぼし、誰もの庇護欲を掻き立てる可憐な姿へと変貌していた。「峻一さん……私を見捨てないで。私以上に、あなたのことを愛している人なんて、絶対にいないわ……」
尚矢と梓も、祈るような目で峻一を見つめ、彼の言葉を待っている。
高木家のおじい様が、祖訓と家規を何よりも重んじる頑固者であることは誰もが知っている。彼を説得することは不可能だ。今や、この状況を覆せる可能性があるとすれば、高木峻一自身が、祖父に反旗を翻す以外に道はなかった。
だが、事件の中心人物であるはずの峻一は、終始、石像のように冷たく、揺るがず、まるで眼下の人間たちを見下しているかのようだった。
彼は、自分の肩に掴まる陽葵を一瞥すると、何の感情も浮かべぬまま、再び視線を正面に戻した。「私は高木家の跡継ぎだ。一族の者の模範となるべき立場にある。祖訓と家規を、率先して破るわけにはいかない」
その言葉を聞き、梓と莉子の顔は死人のように色を失い、その体は崩れ落ちんばかりに揺らめいた。
尚矢は焦燥に駆られた表情で、高木おじい様に問いかけた。「高木様、これは、その……」
高木おじい様は、けばけばしい化粧の陽葵と、神々しいまでに美しい孫の峻一を交互に見比べ、微かにため息を漏らした。
孫が不憫であることは確かだ。しかし、祖訓は絶対なのだ。
「尚矢、私は君のお父さんに恩義がある。だからこそ、この二家の結婚を認め、恩に報いようとしたのだ。だが、婚約の際に、山口家の『どの娘』を娶るかまでは定めておらん。ゆえに今、花嫁が陽葵嬢に代わったとしても、約束を違えたことにはならん。君にとっては、どちらにせよ娘を嫁がせることに変わりはあるまい。我が家の祖訓を、これ以上汚してくれるな!」
変わりがないわけがあるか! まるで違う、天と地ほども違うのだ!
尚矢は万感の思いで反論したかったが、高木おじい様に逆らうだけの気骨はなく、ただ無念に頷くことしかできなかった。
こうして、花嫁の交代は、鉄板の事実となった。
桜井陽葵が、山口莉子に代わって、純白のウェディングドレスに袖を通すことになったのである……
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