
愛を捨てた元妻は、天才オークショニアとして華麗に舞う
章 3
あの日の夜、火葬場で離婚届を叩きつけられた後、鷹司暁は静香が消えたマンションに戻った。
テーブルの上には彼女の荷物はすでになく、一枚の『妊娠中絶同意書』だけが置かれていた。同意書には乾いた血痕が僅かに付着していた。
彼女が離婚を急いだ理由がこれだったのか。生まれるはずだった自分の子供を彼女が独断で抹殺したのだと知った瞬間、暁の頭の中で決定的な何かが切れた。彼は近くにあったグラスを壁に叩きつけ、砕け散ったガラスの破片の中で獣のように咆哮した。後悔と怒りが彼の体を内側から焼き尽くしていく。
それから、五年。
パリ、サザビーズのオークション会場はシャンデリアの光で満たされていた。
「――落札です」
壇上に立つ女性が高らかに宣言し、小さな木槌を打ち下ろした。彼女は「シオン」と名乗る、この会場の首席オークショニアだ。体にフィットしたオートクチュールのドレスに、顔の上半分を覆う繊細なレースの仮面。その姿は神秘的で近寄りがたいオーラを放っていた。
VIPルームの分厚いマジックミラーの向こう側で、鷹司暁はその姿を食い入るように見つめていた。
五年間、日本中をくまなく探しても静香の行方は知れなかった。まるでこの世から蒸発してしまったかのように。
その時、シオンがオークションハンマーを握る右手の小指が、僅かにぴんと反っているのに暁は気づいた。それはかつて静香がお茶を飲む時に見せた無意識の癖と全く同じだった。
心臓が大きく脈打った。
「すぐにあのシオンという女の素性を調べろ。どんな些細なことでもいい、すべてだ」
暁はインカムに向かって、秘書の佐藤健一に低く命じた。抑圧してきた執念が再び鎌首をもたげる。
シオンは流暢なフランス語と圧倒的なカリスマ性で、次々と美術品を競り落としていく。その声は静香のものより少し低い。意図的に変えているのだろうか。
「社長、調べました。シオンはフランス国籍の日系人。経歴はクリーンで、怪しい点は何も……」
佐藤からの報告に暁は冷笑を浮かべた。完璧すぎる経歴は偽装の証だ。直感がそう告げていた。
壇上の女の仮面の下から覗く冷たい瞳。五年前、自分に別れを告げた時の静香の瞳と重なる。胸の奥が怒りにも似た探求心でざわついた。
オークションが終わり、シオンは優雅な一礼と共に舞台袖へと消えた。暁は制止を振り切ってVIPルームを飛び出し、関係者用通路へと向かう。
一方、楽屋に入った静香――シオンはドアに鍵をかけると仮面を外した。
鏡に映る自分は五年前の面影を残しつつも、どこか違う。青臭さが消え、代わりに鋼のような強さが宿っていた。
もう二度と、鷹司の名の下に今の生活を奪われてたまるものか。
通路の入り口で暁は警備員に止められた。彼は固く閉ざされたドアを睨みつけながら苛立ちを募らせる。
静香は鷹司財閥の力がヨーロッパにも及んでいることを知っていた。榊蓮に用意してもらった偽の身分証明書が完璧であることを改めて確認する。
彼女は普段着に着替え、大きなサングラスと帽子で顔を隠すと、内部の人間しか知らない秘密のエレベーターで地下二階へと向かった。
通路に残された微かなジャスミンの香水に暁は足を止めた。それはかつて静香が愛用していた香りだった。間違いない。あの女は静香だ。
暁は力ずくで楽屋に押し入ることはしなかった。代わりに佐藤に命じた。
「すべての出口を封鎖しろ。一匹の鼠も逃がすな」
静香が秘密のエレベーターを降り、地下駐車場に踏み入れたその時だった。
「マミー!」
ピンクのプリンセスドレスを着た小さな女の子が彼女の足元に飛び込んできた。静香はその小さな体を愛おしそうに抱きしめた。
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