
凍りついた心、手術台の裏切り
章 3
平島真理江 POV:
腹部の痛みが, 私を激しく襲った. 手術の傷口が, まるで生きているかのように脈打つ. 私は, ナースコールを押す気力もなく, ただベッドの上で蹲っていた.
その痛みの中で, 私は賢人の姿を思い出した. あれは, 莉子が私生児を産んだ直後のことだった. 私の病室と同じフロアの新生児室の前で, 賢人は莉子の隣に寄り添い, 小さな命を愛おしそうに抱き上げていた. 彼の顔には, 私が生涯, 彼から向けられたことのない, 慈愛に満ちた優しい眼差しがあった.
その時, 私は, 恐ろしい真実に気づいた. 賢人は, 私と彼の間に生まれるはずだった子供の名前を, その私生児に与えていたのだ. 私が, 何日も何日もかけて考え, 彼に提案し, 彼も「いいね」と言ってくれた, あの名前を.
私の子供は, 声もなく消え去ったのに.
彼の子供だけが, そんなにも愛されて.
退院の日, 病院のエントランスには, 賢人の家族と, 莉子と, そしてあの私生児がいた. 彼らは, ささやかな出産祝いのパーティーを開いていた. 賢人は, 終始莉子と私生児の隣に立ち, 人前で「良い夫」「良い父親」を演じていた.
彼は, 時折私の方に目をやった. その瞳には, 警告の色が宿っていた. 私が, 彼らの幸福な光景を邪魔するような真似をすれば, ただでは済まさない, と.
私の胸が, またチクチクと痛みだした. しかし, もう涙は出なかった. 感情が, 完全に麻痺してしまったようだった.
私は, この場から一刻も早く立ち去りたかった. しかし, 私が踵を返そうとしたその時, 莉子が私の前に立ちはだかった.
彼女の顔は, 以前のような怯えはどこにもなく, 勝ち誇ったような笑みを浮かべていた.
「平島さん, お元気ですか? 」莉子の声は, 蜜のように甘かったが, その瞳は私を嘲笑っていた.
私は, 何も言わなかった. 彼女の顔を見つめることさえ, 私には苦痛だった.
「もしかして, 私とあの赤ちゃんを憎んでいるのかしら? 」莉子は, 私の顔を覗き込むように言った. その言葉には, 明らかに挑発の意図があった.
私は, 重い口を開いた. 「あなたを憎む資格も, 私にはないわ」
「あら, そうでしょうか? 」莉子は, フフッと笑った. 「でも, ご存知ないでしょうけれど, あの赤ちゃん, 賢人さんの精子提供だけじゃないんですよ」
私の心臓が, ドクリ, と大きく跳ねた. 彼女の言葉の意味が, 理解できなかった.
「賢人さんと, ちゃんと肉体関係を持ったんです. あの夜, 彼はお酒を飲んでいて…」莉子の言葉は, 私の耳に, 雷鳴のように響き渡った.
私の身体が, 一瞬にして硬直した. 彼女の言葉が, 私の頭の中で, 何度も何度も反芻される.
「人工授精なんて, 私たちが上岡家と平島さんを欺くための嘘よ」莉子の顔が, 憎悪に歪んだ. 「賢人さんは, 自分が女にだらしがないことを, あなたのせいにして, あなたを利用して, 自分を正当化したかっただけなのよ」
賢人が私に言った全ての言葉が, 嘘だった. 莉子の言葉が, 私の心臓を深く抉り, 全身を震わせた. あまりの屈辱に, 私は吐きそうになった.
「あなた…! 」私の口から, 絞り出すような声が出た.
その時, 莉子の手が, 突然私の頬を掴んだ. そして, 私自身の掌で, 彼女の頬を叩きつけた.
パチン!
乾いた音が, 病院の静寂な空間に響き渡った.
莉子は, その場に崩れ落ちた. そして, 大声で泣き叫んだ. 「きゃあああ! ひどい! なぜこんなことをするんですか! この子は, この子は何も悪くないのに! 」
その声に, 賢人が駆けつけてきた. 彼の顔は, 怒りで紅潮していた.
「真理江! 君は, 一体何を…! 」賢人の声は, 私を責め立てた.
彼は, 莉子を抱き起こし, 私のことを睨みつけた. その瞳には, 私への憎悪と, 深い失望が宿っていた.
私は, 彼の顔を見つめた. 私の頬は, 彼の掌で叩かれた痛みで, ジンジンと熱を持っていた. しかし, それ以上に, 心臓が冷たくなっていた.
「賢人…」私は, 何かを言おうとしたが, 彼の言葉がそれを遮った.
「もういい! 君の言い訳など聞きたくない! 」彼はそう叫んだ. 「君は, 僕たちの幸せを壊すことしか考えていないのか! 」
その瞬間, 彼の右手が, 私の頬を強く叩きつけた.
パチン!
耳鳴りがした. 視界が, 一瞬にして真っ白になった.
私は, その場に立ち尽くした. 痛みは, もはや感じなかった. 世界が, 突然静寂に包まれたようだった. 私の心臓は, もう何の感情も抱かなかった. 悲しみも, 憎しみも, 痛みも.
ただ, 冷たい決意だけが, 私の心に深く刻み込まれていた.
私は, 賢人の顔を見つめた. そして, 掠れた声で, しかしはっきりと, 言った. 「賢人. 私たち, 離婚しましょう. 今すぐ, ここで」
賢人は, 呆然とした顔で私を見ていた. そして, やがて嘲笑を浮かべた. 「またその言葉か. 君は, 本当に僕の気を引くのが好きだな」
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