五年、運命を狂わせた一つの嘘 の小説カバー

五年、運命を狂わせた一つの嘘

9.7 / 10.0
結婚五周年を迎え、完璧な幸福の中にいると信じていた。しかし、夫がシャワーを浴びている最中、彼のパソコンに届いた一通の通知が平穏を打ち砕く。「桐谷怜央くんの洗礼式」という文面、そして送り主は著名なインフルエンサー、佐藤美月。私たちの苗字を冠した見知らぬ子供の存在に、私は凍りつくような絶望を覚えた。真実を確かめるべく向かった教会で目にしたのは、夫が自分と瓜二つの赤ん坊を抱き、美月と睦まじく寄り添う姿だった。そこには、私が入り込む隙のない「幸せな家族」の光景が広がっていた。かつて仕事の多忙を理由に子作りを拒んだ彼の言葉も、度重なる出張や深夜残業も、すべては裏で別の家庭を育むための嘘だったのだ。あまりに無慈悲な裏切りを悟った私は、夫のために一度は諦めたチューリッヒでの研究員制度を受けることを決意する。事務局へ電話をかける私の声は、驚くほど冷静だった。五年間の愛が虚構だったと知った今、私は彼との生活を捨て、自らの足で新たな道へと踏み出す準備を始めた。

五年、運命を狂わせた一つの嘘 第1章

夫はシャワーを浴びていた。水の音が、いつもの朝のリズムを刻んでいる。完璧だと思っていた結婚生活、五年目の小さな習慣。私は彼のデスクにコーヒーを置いた。

その時、夫のノートパソコンにメールの通知がポップアップした。「桐谷怜央くんの洗礼式にご招待」。私たちの苗字。送り主は、佐藤美月。SNSで見かけるインフルエンサーだ。

氷のように冷たい絶望が、私の心を支配した。それは彼の息子の招待状。私の知らない、息子の。

私は教会へ向かった。物陰に隠れて中を覗くと、彼が赤ちゃんを抱いていた。彼の黒髪と瞳を受け継いだ、小さな男の子。母親である佐藤美月が、幸せそうな家庭の絵のように、彼の肩に寄りかかっていた。

彼らは家族に見えた。完璧で、幸せな家族。私の世界は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

私との子供は、仕事が大変だからと断った彼を思い出す。彼の出張、深夜までの仕事――その時間は、すべて彼女たちと過ごしていたのだろうか?

なんて簡単な嘘。どうして私は、こんなにも盲目だったのだろう?

私は、彼のために延期していたチューリッヒ建築学特別研究員制度の事務局に電話をかけた。「研究員制度、お受けしたいと思います」私の声は、不気味なほど穏やかだった。「すぐに出発できます」

第1章

夫の蓮はシャワーを浴びていた。ガラスに叩きつけられる水の音が、いつもの朝のリズムを刻んでいる。私は彼のデスクにコーヒーを置いた。完璧だと思っていた結婚生活、五年目の小さな習慣。

その時、蓮のノートパソコンの画面に、カレンダーからのミニマルなポップアップ通知が滑り込んできた。

目を逸らす前に、その文字が飛び込んできた。

「桐谷怜央くんの洗礼式にご招待」

その名前に、私は凍りついた。桐谷怜央。私たちの苗字。

私がそれを理解する前に、通知は消えた。一瞬のまたたき。そして、消えた。まるで、最初からそこになかったかのように。

でも、もう遅い。その映像は、私の脳裏に焼き付いていた。送り主は、佐藤美月。どこかで聞いたことのある名前。時々フィードに流れてくる、完璧に作り上げられた生活を見せびらかすSNSインフルエンサー。フォロワーが何十万もいる、美しい女性。

冷たく鋭い不安が、胃の腑に突き刺さった。これはただのランダムなメールじゃない。彼の息子の招待状。私の知らない、息子の。

住所は都心の教会。時間は、今日の午後。

ノートパソコンを閉じて、何も見なかったことにしたい。蓮と築き上げてきた完璧な幻想に戻りたい。私を愛してくれた、聡明でカリスマ的なIT企業のCEO、蓮との生活に。

でも、もう一人の私が、冷たく、しつこく囁く。行かなければ。確かめなければ、と。

私はコーヒーをデスクに残し、私たちの家を出た。私が私たちの愛の記念碑として設計した、清潔でミニマルな家を。

教会は古い石造りで、ステンドグラスから陽光が差し込んでいた。私は後ろの方に立ち、物陰に隠れた。心臓が、重く、痛みを伴って肋骨を叩く。

そして、彼を見た。

蓮。私の蓮。彼はいつものシャープなビジネススーツではなく、柔らかいカジュアルな服を着て、前の方に立っていた。リラックスして、幸せそうに見えた。白いレースに包まれた美しい赤ちゃんを抱いている。

蓮の黒髪と、表情豊かな瞳を持つ、小さな男の子。

その子、怜央くんが、ぷっと泡を吹いて笑い、小さな手を伸ばして蓮の顔に触れた。

「あなたみたいな人になってほしいな、パパ」女の声が、柔らかく、所有権を主張するように言った。

佐藤美月が姿を現し、蓮の腰に腕を回した。彼女は蓮の肩に頭を寄せ、幸せな家庭の絵そのものだった。彼女の笑顔は輝き、その目は私が夫と呼ぶ男に釘付けになっていた。

彼らは家族に見えた。完璧で、幸せな家族。

私の頭は真っ白になった。あまりに深い無感覚の波が押し寄せ、まるで自分の体から魂が抜け出して浮いているようだった。蓮が美月の額にキスをし、そして赤ん坊に注意を戻し、何かを囁いて彼女を笑わせるのを、私はただ見ていた。

現実だった。すべてが。女も、赤ん坊も。彼の秘密の生活も。

信者席には見覚えのある顔がいくつかあった。蓮の仕事仲間で、私たちの家のディナーパーティーに来たことのある人たちだ。彼らは幸せそうなカップルに微笑みかけ、物陰で世界が崩壊していく妻の存在には気づいていない。

息ができなかった。そこへ歩み寄り、叫び、彼らの完璧な瞬間を粉々にする勇気はなかった。闘志は消え失せ、代わりに深く、空虚な絶望が私を支配した。

私は踵を返し、重い教会の扉から滑り出て、街の喧騒の中へと戻った。音はくぐもって、遠くに聞こえる。世界は冷たく、私はそれ以上に冷え切っていた。

数ヶ月前の記念日の会話を思い出した。

「蓮」私は優しく言った。「私、準備ができたと思うの。赤ちゃん、作らない?」

彼は黙り込んだ。目を逸らし、髪を手でかき上げた。いつも彼が考え事をするときの癖だと思っていた。

「まだだよ、詩織」彼はついに言った。「会社が正念場なんだ。もう一年だけ待ってくれ。子供には、すべてを与えられる状態でいたいんだ」

私は彼を信じていた。大学時代、私を執拗に追いかけた男を信じていた。私の野心の奥にある、ただの女としての私を見てくれた唯一の人。

当時、私たちは建築学科のトップを争うライバルだった。彼は聡明で、野心的で、私以外の誰にでも冷たかった。

私がスタジオで徹夜していると、温かいスープを持ってきてくれたのを覚えている。設計図に向かってかがむ私の背中を、彼の手が優しくさすってくれた。

肺炎で倒れ、立つこともままならなかった時のことも。彼は三日間、病院のベッドのそばに付きっきりで、眠りもせず、ただ私を見守ってくれた。

彼はその病室でプロポーズした。見たこともないほど脆い声で。

「詩織を失うわけにはいかない」彼は私の額に自分の額を押し付け、囁いた。「君のいない人生なんて、考えられない」

後で知ったことだが、彼の母親も同じような病院で亡くなっていた。彼の恐怖は本物だと感じたし、彼の愛は絶対だと思っていた。

私たちは卒業後すぐに結婚した。彼のITスタートアップは爆発的に成功し、彼は誰もが憧れる男になった。私も自分のキャリアを築いたが、常に彼を優先した。彼のために、私たちのために、私自身の五年計画を変更した。

そして、その間ずっと、彼には別の家族がいたのだ。

私だけに向けられていると信じていたあの愛も、献身も、嘘だった。ただの演技だった。

ポケットの中でスマホが震えた。彼からだった。画面に表示された彼の名前を、震える手で見つめる。やっとのことで応答した。

「もしもし、どこにいるんだ?」彼の声は温かく、いつも私に使う愛情のこもった口調だった。

背景から、赤ん坊の泣き声が微かに聞こえ、そして美月が子供をあやす声がした。

私は教会の向かいの通りに立ち、開いた扉から彼を見ていた。彼はスマホを耳に当て、私に話しかけながら微笑んでいる。

「ちょっと散歩してるだけ」なんとかそう言うと、自分の声が異質で、脆く聞こえた。

「急な会議で捕まっちゃって」彼は滑らかに言った。「もうすぐ帰るから。会いたいよ」

なんて簡単な嘘。彼の口からは、呼吸をするように嘘が吐き出される。ついに一筋の涙がこぼれ落ち、冷たい肌を熱く伝った。数々の出張、オフィスでの深夜残業。そのうちのどれだけが、ここで、彼女たちと過ごされていたのだろう?

どうして私は、こんなにも盲目だったのだろう?

喉の奥の塊を飲み込み、声を無理やり安定させた。「蓮、会って話したいことがあるの」

彼はためらった。彼が体重を移動させ、笑顔が一瞬だけ揺らぐのが見えた。「まだ会議中なんだ、ハニー。家に帰るまで待てないか?」

「待てない」

その時、小さな男の子、怜央くんがよちよちと歩いてきて、蓮の足に抱きついた。

「パパ!」子供が甲高い声を上げた。

蓮の目はパニックで見開かれた。彼は慌ててかがみ込み、私には落ち着いた低い声を保ちながら、男の子を静かにさせようとした。「ああ…同僚の子供だよ」

電話が切れた。彼が切ったのだ。

彼が男の子を腕に抱き上げ、頬にキスをし、何かを囁いて子供を笑わせるのを見ていた。彼はとても自然で、くつろいで見えた。なんて良い父親だろう。

私の心はえぐり取られたように、空っぽで、痛みを伴う空洞だけが残った。私の人生の数年間、私の愛が、まるで冗談のように感じられた。

私は再びスマホを取り出した。指が勝手に動いていた。親友の由奈には電話しなかった。弁護士にも電話しなかった。

私が電話したのは、チューリッヒ建築学特別研究員制度のディレクターだった。私が合格したにもかかわらず、蓮のために延期した、名誉ある六ヶ月間のプログラム。完全な、途切れることのない集中を要求されるプログラム。完全な隔離。

「研究員制度、お受けしたいと思います」私の声は、不気味なほど穏やかだった。「すぐに出発できます」

続きを読む

五年、運命を狂わせた一つの嘘 目次一覧

Ch. 1 Ch. 2 Ch. 3
Ch. 4
Ch. 5
Ch. 6
Ch. 7
Ch. 8
Ch. 9
Ch. 10
Ch. 11
all

おすすめの作品

新着リリース小説

ロボットの私は、誕生日だけ生き返る の小説カバー
8.4
「君は不死身だろう。命を彼女に譲ってほしい」という恋人の身勝手な願いを、私は受け入れた。しかし、彼は気づいていない。その決断を下した瞬間、私の命は本当に尽きてしまったのだ。私に残されたのは、誕生日を祝われるたびに一年間だけ蘇生できるという特殊なシステムだけだった。かつて「毎年ずっとそばにいる」と誓った彼の言葉を信じ、私は機械の体となって復活の時を静かに待つ。だが、約束の誕生日に彼が選んだのは、私ではなく“本命”の女性との婚約旅行だった。SNSには二人の幸せなニュースが溢れ、彼からは「彼女のために、騒がないでくれ」と冷酷なメッセージが届く。死人となった私が声を上げる術などない。しかし、再会した彼が私の変わり果てた機械の姿を目の当たりにしたとき、平穏を乱し、狂ったように取り乱したのは、他でもない彼の方だった。裏切りと再生が交錯するなか、かつての愛の形は残酷に崩れ去っていく。
後悔してももう遅い、覚醒した天才妻は輝き出す の小説カバー
9.5
結婚七周年という節目の記念日、園田理穂を待っていたのは夫からの冷酷な拒絶だった。急な会食を理由に約束を反故にされた彼女は、偶然にもデパートで衝撃的な光景を目の当たりにする。そこには、見知らぬ女性と実の息子、そして夫が、まるで理想的な家族のように睦まじく笑い合う姿があった。息子がその女性を「ママより優しい」と慕い、夫が慈愛に満ちた表情を向ける中、理穂は東大博士課程という輝かしいキャリアを捨てて尽くしてきた七年間の無意味さを悟る。さらに、夫が自宅の最新AIロボットに、理穂を侮辱し嘲笑する音声を密かに仕込んでいたという残酷な事実までもが発覚。家庭という名の監獄で精神的虐待を受けていた現実に直面し、彼女の悲しみは鋭利な怒りへと変貌を遂げる。もはや未練などない。理穂は結婚指輪を投げ捨て、自らの足で家を出ることを決意する。敏腕弁護士である親友の助力を得て、かつての天才と呼ばれた彼女は、失われた尊厳を奪還し、裏切った家族へ報いを受けさせるための静かなる反撃を開始した。
初恋を捨てた夜、彼の親友に美味しく蹂躙されました の小説カバー
9.4
Mio Katayama's world shattered when her secret crush on her uncle, Rintaro Kanzaki, was exposed, leading to her exile and a life branded by scandal. Years later, despite becoming a brilliant scientist, she is forced into a strategic marriage with the formidable Soma Fujiwara to protect Rintaro’s reputation. Believing it to be a cold business arrangement, Mio is stunned by Soma’s intense, possessive passion. As she finds true devotion in his arms, a pregnant Mio finally discards her past feelings. When a regretful Rintaro returns to reclaim her, he finds himself locked out, while Soma claims his prize with ruthless, suffocating love.
モテが止まらない、狼隊長 の小説カバー
8.1
北方の地で命を落とした一匹の狼が、現代の人間へと転生を果たした。新たな体は、あろうことか五輪選考に漏れたラグビーの補欠選手。しかし、野生の獣としての身体能力は失われていなかった。周囲が驚愕するほどの猛スピードでフィールドを駆け抜け、圧倒的な実力を見せつけた彼は、短距離コーチから種目転向を打診されるほどの逸材として注目を集める。本来ならチームを去るはずの立場から一転、親善試合での大活躍を機に連戦連勝を重ね、ついにはキャプテンの座にまで上り詰めた。その勢いは競技場に留まらず、オフシーズンのテレビ出演をきっかけに、端正な容姿と鍛え上げられた肉体で世の女性たちを虜にしていく。ネット上で熱烈な求婚が殺到し、社会現象を巻き起こすほどの人気を博すが、彼の魂は高潔な狼のままだった。世間を騒がせる人気女優に対しても、彼は臆することなく宣言する。自分たち狼族は、生涯ただ一人の伴侶のみを愛し抜く一途な存在であると。野生の強さと誠実さを併せ持つ男の、前代未聞のサクセスストーリーが幕を開ける。
離婚後、薔薇は孤高に咲き誇る~愛を乞う元夫、母を求める息子~ の小説カバー
8.4
高橋美咲は三年間、良き妻、そして良き母として家族に献身的に尽くしてきた。しかし、その懸命な努力の末に待っていたのは、夫による無慈悲な裏切りと、愛する息子からの冷淡な嫌悪だった。夫と息子は美咲の献身を「弱者の立場を悪用して這い上がろうとする狡猾な計算」だと決めつけ、彼女を蔑み続けていた。家庭内に居場所はなく、誤解と疎外感に苛まれる日々に絶望した彼女は、ついに自らの人生を取り戻す決断を下す。冷え切った家を去り、過去と決別して歩み始めた美咲は、束縛から解放されたことで本来の輝きを放ち、圧倒的な存在感を示すようになる。一方で、かつて彼女を無価値な存在として切り捨てた夫と息子は、変貌を遂げた美咲の姿に愕然とし、激しい後悔とともに許しを乞う。しかし、地に膝をつき縋り付く二人に対し、美咲は氷のように冷徹な眼差しを向け、突き放すように言い放った。「……もう、手遅れよ」と。自らの運命を切り拓き、孤高に咲き誇る一人の女性の再起を描いた物語。
子を奪われた令嬢は、黒い幼馴染と復讐を誓う の小説カバー
9.4
神田財閥の令嬢であることを隠し、真実の愛を求めてIT社長と結婚した私。しかし、夫が愛していたのは幼馴染の女優だった。彼女のスキャンダルを隠蔽するため、夫は私に身代わりを強要し、挙句にはお腹の子の中絶を命じる。拒絶した私を待っていたのは、義母による過酷な地下室への監禁だった。灼熱の闇の中で愛児を失い、絶望の底に突き落とされた私は、復讐の鬼と化す。病院で目覚めた私は離婚を決意し、封印していた実家の力を解放するため電話を手に取った。神田グループの真の後継者として、冷酷な裏切り者たちを地獄へ叩き落とす反撃が今始まる。
今すぐ読む
共有