
偽りの旋律と裏切りの愛
章 2
愛子 POV:
「愛子, どうしたんだ? 元気がないようだが. 」
英世の声が, 私の耳朶を打った. 彼は心配そうに私の顔を覗き込む. 昨夜, 私が手話で「疲れた」と伝えたことに対して, 彼はまだ何か言いたげだった. 彼の視線は, 私の顔から, 私が避けている手へと移る.
「大丈夫よ. 少し, 考え事をしていただけ. 」
私は手話で答えた. 声を出さないのは, 英世が私の聴力が戻ったことに気づかないようにするためだ. 私の口から声が出ないように, 私は何年もかけて手話を完璧にマスターした. 今, それが最高の武器となっている.
「無理しなくていい. 君は僕の, 僕たちの宝物だ. 君が健康でいてくれるのが一番だ. 」
英世はそう言って, 私の手を握ろうとした. 私は反射的に身を引いた. 彼の表情に一瞬, 困惑の色が浮かぶ. 私はそれを, 見逃さなかった.
「ちょっと, 気分が悪くて. 手話で伝えるのも, 少し疲れてしまうわ. 」
私は嘘をついた. 彼の顔に, 安堵の色が広がる. 彼は私の身体を気遣っているのではない. 私が不機嫌になる理由が, 「彼らのせいではない」ということに安心しているだけだ.
「そうか, 無理はいけないな. 今日は朝食を部屋で食べるか? 」
彼は提案した. 私の目には, その言葉の裏にある「今日子を刺激したくない」という意図が透けて見えた. 私は首を横に振った.
「いいえ. みんなで食べましょう. 」
私は淡々と手話で返した. 彼の思惑通りに動くつもりはない. 私は, 彼らの「偽りの家族愛」を観察するために, この家にいるのだ.
食卓に着くと, 大翔が満面の笑みで駆け寄ってきた.
「ママ, おはよう! 」
彼は私に抱きつき, 短い腕で首を絞めるように抱きしめた. その小さな身体からは, 今日子と同じ香水の匂いがした. 私の心臓が, また鈍い痛みを訴える.
「おはよう, 大翔. 」
私は優しく彼の背中を撫でた. しかし, その手は, 彼の身体をしっかりと掴むことはできなかった. その瞬間, 大翔は私の腕からスルリと抜け出し, 今日子の膝の上に飛び乗った.
「今日子ママ, おはよう! 」
大翔は今日子の頬にキスをした. 今日子は満面の笑みで彼を抱きしめた.
私の席は, ダイニングテーブルの, 一番端だった. 英世の対角線上. 今日子と大翔は, 英世の隣に並んで座っている. まるで, 私だけが, この家族の「余計な存在」であるかのように.
「愛子さん, 気分はどう? 」
今日子が, 私に, わざとらしいほど優しい笑顔で尋ねた. 彼女の瞳の奥には, 薄い嘲りが宿っているのが見えた. 私は, 彼女が今, 内心で私を「役立たずの聾者」と見下していることを知っている.
「ええ, おかげさまで. 」
私は手話で答えた. 聞こえないふりをして, 彼女の言動を観察する. 彼らは, 私が何も知らないと思っている. それが, 滑稽で, そして, 恐ろしい.
英世は私の方を一瞥し, すぐに今日子と大翔に視線を戻した. 彼らの間には, 私には決して立ち入れない, 濃密な空気が流れていた.
「愛子さん, これ, 焼いたばかりのパンですよ. どうぞ. 」
今日子が, 私の皿に, 焼きたてのパンを置いた. 熱気を帯びたパンが, 皿の上で湯気を立てている. その匂いが, 私の胃の奥から込み上げてくる吐き気を誘った.
「ありがとう. 」
私は手話で答えた. 彼女の指先が, 英世の指先に触れるのが見えた. まるで, 私への示威行為のように.
私の視線は, 英世の左手に釘付けになった. 彼の薬指には, 私との結婚指輪が光っている. しかし, その指輪のすぐ隣, 彼の小指には, 今日子とお揃いの, シンプルなシルバーリングが嵌められていた. 昨夜, 私はそれに気づかなかった.
私の心臓が, もう一度激しく脈打つ. それは痛みではなく, 怒りだった.
彼の手は, かつて私を優しく抱きしめ, 私の髪を撫で, 私が奏でるメロディーを慈しんだ手だった. しかし, 今は, 今日子と私, 二人の女の間で, 平然と愛を弄ぶ, 汚れた手だ.
「ひでよさん, 愛子さんもいるのに, 水くさいわね. 」
今日子が, 英世の耳元で囁いた. 彼女は英世の膝に手を置き, 挑発するように私を見た. 英世は一瞬怯んだように私を見たが, すぐに今日子の腰を抱き寄せ, 唇を合わせた. 二人の舌が絡み合う音が, 私の耳に, はっきりと聞こえた.
私の胃の奥から, 熱いものが込み上げてきた. 喉が焼け付くように熱い.
「ぅ... っ」
私は手で口を覆い, 椅子から立ち上がった.
「ママ? 」
大翔が心配そうに私を見上げた.
「愛子, どうしたんだ? 」
英世が, 慌てて私に駆け寄ろうとした. しかし, 私は彼の手を振り払い, 洗面所へと駆け込んだ. トイレに顔を突っ込み, 胃の内容物を全て吐き出した. 吐いても吐いても, 吐き気は収まらない. 私の身体は, 彼らの醜い行為を, 汚れた愛を, 拒絶している.
「愛子さん, 大丈夫? 」
今日子の声が, 洗面所のドアの向こうから聞こえる. その声は, 心配と見せかけて, どこか得意げな響きを含んでいた.
「近づかないで! 」
私は思わず叫んだ. 声が出る. 私の声が, 明確に, 洗面所に響き渡る.
しかし, 彼らは, その声を聞き取れない. 私が聾者だと思っているからだ.
「愛子さん, 何を言ってるんだ? 聞こえないよ. 」
英世の声が, 重苦しく響いた. 私は壁に手をつき, 身体を起こした. 鏡に映る自分の顔は, 青白く, まるで死人のようだった.
「気分が悪いから, 一人にして. 」
私は手話で彼らに伝えた. その言葉は, 私の心からの叫びだった.
もう, あなたたちとは, 一秒たりとも同じ空間にいたくない.
英世は眉をひそめたが, 今日子に促され, 渋々といった様子で洗面所を後にした.
彼らの足音が遠ざかっていく. 私は洗面所の床に座り込み, 冷たいタイルに頬を押し付けた.
彼らの会話が, 私の脳裏に蘇る.
「愛子が死んだら保険金で豪遊しよう. 」
「この新曲は今日子に捧げる. 」
「聞こえないママより, 今日子ママがいい. 」
彼らは, 私が聴力を失ったことを利用し, 私の才能を奪い, 私の人生を食い物にしてきた. そして今, 私の死を望み, 私を嘲笑っている.
私は鏡の中の自分を見つめた.
その瞳には, もう昔の輝きはない. ただ, 燃え盛るような, 冷たい炎だけが宿っていた.
かつて, 英世は私に言った.
「君の音楽は, 僕の魂だ. 君がいなければ, 僕は何もできない. 」
彼は私を「ミューズ」と呼び, 私の才能を崇拝した.
高級なドレス, 豪華な宝石, 彼がプレゼントしてくれたものは数えきれない.
英世は, 私を溺愛しているように見えた. しかし, それは, 私という存在を通して, 彼自身を飾り立てるためのものだった. 彼は私の才能を, 自分の付属品としてしか見ていなかったのだ.
英世は自分に都合の良い「愛子」だけを愛している.
そして, その「愛子」が, もう存在しないことを, 彼は知らない.
私は立ち上がり, 洗面台の蛇口をひねった. 冷たい水が, 私の手に, 顔に, 流れ落ちる. この冷たさが, 私の心を研ぎ澄ませていく.
復讐の, 始まりだ.
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