
偽りの旋律と裏切りの愛
章 3
愛子 POV:
シャワーの音が止むと, すぐに扉が開く音がした. 私はバスタオルで髪を拭きながら, 寝室のベッドに座った. 英世が, 白いバスローブを羽織って入ってきた.
「愛子, 大丈夫か? まだ気分が悪いのか? 」
英世は心配そうな顔で私の隣に座り, 私の肩を抱いた. 彼の肌の温かさが, 私にはまるで毒のように感じられる. 吐き気が込み上げてくるのを必死で抑え込んだ.
「ええ, もう大丈夫よ. 」
私は手話で答えた. 彼の腕の中で, 私は硬く身体を強張らせた. その抵抗を, 彼は「まだ具合が悪いせいか」と解釈しているようだった. 彼は私の額に優しくキスをした.
その時, 彼の携帯が震えた. ベッドサイドテーブルに置かれた携帯の画面が, 明るく光る. 英世がちらりと画面に目をやった.
中川今日子.
そして, その下には, 今日子からのメッセージが表示されていた.
「ひでよさん, 早く来て. 私, 寂しい... 」
メッセージと共に, 今日子の自撮り写真が送られてきていた. ベッドの上で, 肌も露わに, 甘えるような表情を浮かべている.
英世は一瞬, 顔色を変えた. 彼は慌てて携帯を裏返したが, 私がすでにその写真とメッセージを目にしていることに気づいていない.
「誰からだ? 」
私は手話で尋ねた. 英世は焦ったように答える.
「ああ, マネージャーからだよ. 明日の打ち合わせの確認だ. 」
彼は顔色一つ変えずに, 嘘をついた. その嘘は, あまりにも薄っぺらく, 私の心に何の感情も呼び起こさない.
「そう. 」
私は短く答えた. 英世はほっとしたように息をついた. その瞬間, 彼の携帯が再び震えた. 今度は, メッセージではなく, 着信だ. 画面には, やはり今日子の名前が表示されている.
英世は私を抱きしめたまま, その着信を無視した. しかし, 携帯は鳴り止まない. 今日子の執拗さが, 私の脳裏に蘇る. 彼女は, 英世を私から奪おうと, 常に私を挑発してきた.
英世が私にしがみつく力が, 少し強くなった. それは, 私を愛しているからではない. 今日子からの電話を無視することで, 私への「忠誠心」を示そうとしているのだ.
しかし, 彼の偽りの行動は, 私には何の価値もない.
数秒後, 英世が私の身体から離れた.
「愛子, 僕は少し仕事の電話に出てくる. 君は先に休んでくれ. 」
彼はそう言って, 携帯を手に部屋を飛び出した. その背中には, 焦りと, 今日子への執着が透けて見えた. 私はベッドの上で, ただ静かに彼の足音が遠ざかるのを待った.
彼の足音が完全に消え, 家の中が静まり返った頃, 私はベッドからゆっくりと降りた. 私は寝室のドアをそっと開け, 廊下に出た. 階下から, 英世の声が聞こえてくる. 彼はリビングではなく, 奥の部屋へと向かったようだ.
奥の部屋. それは, 五年前に英世が趣味の音楽鑑賞のために作った, 防音室だ. 私が聴力を失ってからは, ほとんど使われていなかったはずの部屋だ.
私は音を立てないように, 階段を降りていった. 足元が床と擦れる微かな音さえ, 今ははっきりと聞こえる. 私は聞こえるようになった耳を最大限に活かし, 彼らの会話を聞き漏らさないように集中した.
防音室の扉の向こうから, 英世と今日子の声が聞こえてきた.
「今日子, どうしたんだ? そんなに慌てて. 」
英世の戸惑った声.
「ひでよさん, 愛子さんが... あの, 愛子さんの目が, 私を見ていたわ. まるで, 全てを知っているかのように. 」
今日子の震える声が聞こえた.
「まさか. 愛子は耳が聞こえないんだ. それに, 彼女は君たちを疑うような女じゃない. 」
英世はそう言ったが, その声には, 明らかに動揺が混じっていた.
私が聴力を失ってから, 今日子は英世と私を繋ぐ「架け橋」として, この家に頻繁に出入りするようになっていた. 最初は, 私の手話の通訳や, 医者との予約の調整など, 英世が不在の私の世話を焼く名目で. しかし, いつの間にか, 彼女は英世の「秘書」となり, そして, 彼の「愛人」となっていた.
そして, この防音室は, いつの間にか彼らの密会の場所となっていたのだ. 私が聴力を失って以来, この部屋は彼らの愛の巣となった.
私は, そのことに, 今ようやく気づいた.
私の心に, 激しい怒りが込み上げてきた. 長年, 聾者として生きてきた私をあざ笑い, この家で堂々と不貞を働いていたのか.
私は震える手で, 防音室のドアノブを掴んだ. 開けようとした, その時, 背後から物音がした.
「奥様, どうなさいましたか? 」
家政婦の声だ. 私は慌てて手を離し, 振り返った. 家政婦は怪訝な顔で私を見ている.
「いや, なんでもないわ. ただ, 喉が渇いて... 」
私は手話で答えた. 家政婦はすぐに飲み物を用意しようと, キッチンへと向かった. その隙に, 私は再び防音室の扉に向き直った. しかし, 扉が開くことはなかった.
「愛子, こんなところで何をしているんだ? 」
英世が, 防音室から出てきた. 彼の顔は青ざめ, 目には焦りの色が浮かんでいる. 彼の後ろには, 乱れた髪と服を直す今日子の姿があった.
「英世さん... 今日子さん... どうしたの? 」
私は手話で尋ねた. 聞こえないふりをして, 彼らの動揺を観察する.
「愛子さん, 私たちは... その, 明日の打ち合わせの最終確認をしていたんだ. 」
英世が, たどたどしく答えた. 今日子も慌てて頷く.
「そうよ, 愛子さん. 明日のコンサートの選曲について, ひでよさんと真剣に話し合っていたの. 」
今日子の声は, 震えていた. 彼女の表情には, 恐怖と, そして, 私への敵意が入り混じっていた.
「そうだったのね. ごめんなさい, 邪魔をしてしまったわ. 」
私は手話で答えた. 英世は安堵のため息をついた. 彼は私の身体を抱き寄せ, 私の耳元で囁いた.
「大丈夫だよ, 愛子. 君が元気でいてくれるなら, それでいいんだ. 」
そう言って, 彼は私を抱きかかえ, ゆっくりと階段を上り, 寝室へと連れて行った. 彼の腕の中で, 私は何も言わずに身を任せた. しかし, 私の心は, 彼への憎悪で, 激しく燃え上がっていた.
寝室に着くと, 英世は私をベッドに下ろした.
「愛子, もう遅い. ゆっくり休んでくれ. 」
彼はそう言って, 部屋の明かりを消した. 私は目を閉じ, 寝たふりをした. 彼が部屋を出て行く足音が聞こえる. 扉が閉まる音. そして, 数分後, 再び防音室の扉が開く音がした. 彼らは, 私が眠ったと確信し, 再び密会を始めたのだ.
「ひでよさん, 愛子さん, もしかして, 全部聞こえてるんじゃないかしら? 」
今日子の声が, 防音室の扉の向こうから聞こえてくる.
「まさか. 愛子は耳が聞こえないんだ. それに, 彼女は君たちを疑うような女じゃない. 」
英世の声は, 最初よりもずっと落ち着いていた. 彼は, 私が何も知らないと, 心の底から信じているのだろう.
その時, 寝室の扉が再び開いた. 私は思わず, 目を開けた. そこには, 今日子が立っていた. 彼女は私をじっと見つめている. そして, ゆっくりと, 私のベッドに近づいてきた.
「愛子さん, まだ起きてたの? 」
今日子が, 私の耳元で囁いた. その声は, 甘くとろけるようでありながら, どこか冷たかった.
「ひでよさん, 愛子さんはまだ寝てないみたいよ. 」
今日子は, 防音室に向かって叫んだ. その声は, 私への挑発だ.
英世が慌てて防音室から出てきた. 彼は今日子を睨みつけた.
「今日子, 何をバカなことを言ってるんだ. 愛子は寝ているんだ. 」
「ひでよさん, 愛子さんはまだ寝てないわ. それに, 愛子さんは私たちが話していることを, 全部聞いているんじゃないかしら? 」
今日子は, 私の耳元で, さらに挑発的な言葉を囁いた.
「君は, そんなに愛子を追い詰めたいのか? 愛子は耳が聞こえないんだぞ. 」
英世は, 今日子を睨みつけた. しかし, 今日子は, 怯むことなく, 私にさらに近づいてきた. 彼女の顔が, 私の顔のすぐ近くにある.
「愛子さん, きっとあなたが耳が聞こえないから, 私たちの愛の音が聞こえないのね. 」
今日子はそう言って, 私の額にキスをした. そのキスは, まるで毒を塗られたかのように冷たく, 私の身体を震わせた.
その瞬間, 英世が今日子を突き飛ばした.
「今日子! いい加減にしろ! 」
英世は怒鳴った. しかし, 今日子は, 怯むことなく, 英世の腕を掴んだ.
「ひでよさん, 私を愛してるんでしょ? だったら, 愛子さんを捨てて, 私と結婚して. 」
今日子はそう言って, 英世に抱きついた. 二人の身体が密着する. その光景が, 私の目には, あまりにも醜く映った.
私の耳には, 彼らの吐息が, 甘ったるい声が, そして, 卑猥な摩擦音が, はっきりと聞こえてくる. 私の目に, 彼らの絡み合う唇が, 身体が, 焼き付くように映る.
私は, もう, 限界だった.
私の目から, 熱い涙が流れ落ちた. しかし, その涙は, 悲しみからではない. 憎しみと, そして, 深い絶望からだった.
ベッドサイドテーブルに置かれた冷たい水が, 私の視界に入った. 私はそのグラスを掴み, 一気に飲み干した. 冷たい水が, 私の喉を, 胃を, そして, 心の奥底を冷やしていく.
私は, もう泣かない.
あなたたちへの復讐が, 私に残された唯一の道だ.
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