
偽りの結婚、愛人の囁き
章 3
私はその夜, 光矢が帰宅するのを, 死んだように待っていた. 彼の足音が聞こえるたびに心臓が跳ね上がったが, すぐにそれは鈍い痛みに変わる. ドアが開く音. 光矢の声. 「桃香, ただいま」.
リビングに入ってきた光矢は, 私を見るなり, 少し驚いたような顔をした. そして, すぐにその表情を, いつもの優しい夫の顔に変えた.
「どうしたんだい, まだ起きてたのか. 疲れてるだろうに」彼は私の隣に歩み寄り, 手を伸ばしてきた.
私はその手を, 条件反射のように避けた. 彼の体温が, 私の肌に触れるのが, ひどく嫌だった.
「雅は... どこにいるの? 」私の声は, ひどくかすれていた.
光矢の動きが, 一瞬止まった. 彼はすぐに平静を取り戻し, 少し困ったように眉を下げた.
「雅のことか. 彼女は郊外の別荘にいるよ. 少し情緒が不安定でね. ピアニストとしての大事な指を守るためにも, しばらく静かな環境で休ませてあげないと」
彼は, 私にそう説明しながら, 再び手を伸ばしてきた.
「桃香も疲れてるだろう. 休んだ方がいい. 雅のことは, 僕がなんとかするから」
私は, 彼の言葉の意味を考えた. 雅の指. 彼女の情緒. そして, 私の疲労. まるで, 私が何かを責めているかのような, 彼の言い方.
「雅が, なぜ, 私たちの別荘にいるの? 」私の声は, 震えていた.
光矢は, まるで私の質問が理解できないかのように, 目を瞬かせた.
「君と僕の家よ. 私たちが, 一緒に家具を選んで, 壁の色を決めて, 未来を語り合った, この家. なぜ, この家に... 」
彼の顔に, 不快そうな表情が浮かんだ. すぐにそれは, 少し失望したような, 冷たい眼差しに変わった.
「桃香, 君も大人だろう. 雅は僕の大事な幼馴染だ. 困っている者を助けるのは当然だと思わないか? 」彼は, まるで私が嫉妬深い女であるかのように, 私を非難した.
私は, 彼の言葉に反論する気力もなかった. 私の心臓は, もう何も感じない. ただ, 全身が冷え切っている.
光矢は, 私を嫌悪している. それが, 彼の瞳にありありと映っていた. 私の感情は, 彼にとって, ただの面倒な「嫉妬」でしかないのだ.
夜が更け, 光矢はシャワーを浴びて寝室に戻ってきた. 彼は私の背後から, そっと抱きしめようと腕を伸ばした.
その時, 彼の携帯がピカリと光った. 画面には「雅」の文字.
光矢は, 私の体を離し, すぐに携帯を手に取った. 彼は寝室のドアを開け, 廊下に出ていった. 私には聞こえないように, 声を潜めて話していたが, 雅を心配する優しい声が, ドアの隙間から漏れてくる.
数分後, 光矢は寝室に戻ってきた. 彼は私の額に, そっとキスをした.
「ごめん, 桃香. 雅がね, どうしても僕に話したいことがあるみたいで. 少し出てくるよ. ゆっくり寝ててね」
彼の足音が, 遠ざかっていく. そして, ドアが閉まる音と共に, 私の心は再び, 深い闇に沈んでいった.
私は暗闇の中で目を開け, 天井を見つめた. 額に残る彼のキスが, まるで汚れた烙印のように, 熱く, 不快だった.
私にとって, 彼は全てだった. でも, 彼にとって, 私は何だったのだろう. 彼が命をかけて守ろうとしているのは, 雅だった. 彼の愛の全ては, 雅に注がれていた. 私は, ただのおまけ. いや, それ以下だ.
私は静かにベッドから起き上がった. 足元に置いてあったスーツケースを引っ張り出す. 彼のくれた高価な服や宝石には, 一切手をつけなかった. 私が大切にしていた, わずかな私物だけを, スーツケースに詰めていく.
スーツケースをクローゼットの奥に隠し, 私はベッドの端に座って, 夜が明けるのを待った. 光矢は, 結局, 朝まで帰ってこなかった.
朝一番で, 私は光矢の書斎へと向かった. 彼の書斎の鍵は, いつも決まった場所に隠してあった. 私は震える手で鍵を開け, 書斎の奥にある彼の金庫を探した.
金庫の扉は, 指紋認証と暗証番号でロックされていた. 暗証番号は, 私たちの結婚記念日だ. 私はその番号を打ち込んだ. カチリ, と, 軽快な音を立てて金庫の扉が開いた. 私の心臓が, 耳元で激しく脈打つ.
中には, 予想通りのものが収められていた.
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