
余命宣告された妻の偽装死:冷酷な夫の遅すぎる後悔
章 2
完璧な家族の絵。その中で、自分だけが異物だった。
凛は震える足で、一歩、また一歩と後ずさる。カサリ、と足元で乾いた音がした。床に落ちたままの診断書を、自分の足で踏みつけてしまっていた。その痛ましい音が、今の自分自身を象徴しているようだった。
「あら、凛さん」
花音が、わざとらしく驚いたような声を上げる。彼女は子供たちを促し、その小さな背中を優しく押した。
「ほら、あなたたち。お部屋に行きましょうね」
子供たちが、不思議そうな顔で凛を見上げる。その純粋な瞳が、今の凛にはあまりにも残酷だった。凛はとっさに目を逸らし、唇を強く噛みしめる。血の味が、口の中にじわりと広がった。
暁が子供たちを花音に預け、低い声で二階へ行くよう指示する。花音は「はい、暁さん」と甘く答え、凛にだけ見える角度で、勝ち誇ったような笑みを浮かべてリビングを去っていった。
再び、リビングには二人きりになった。先程よりもずっと重く、冷たい沈黙が支配する。
凛はゆっくりと屈み、床に落ちた診断書を拾い上げた。紙を握る手が、怒りと悲しみで関節が白くなるほど力が入る。
顔を上げた凛の瞳には、もう涙はなかった。ただ、底なしの絶望と、燃えるような怒りの炎が宿っている。
「これが、あなたの答えなのね」
静かな問いかけに、暁は答えなかった。代わりに、ゆったりとソファに深く腰掛け、足を組む。その仕草の一つ一つが、凛の神経を逆撫でした。
「妻の座にしがみつくお前の姿は、滑稽を通り越して哀れだな」
嘲笑が、刃物のように突き刺さる。
その瞬間、凛の胸の奥で、忘れていたはずの記憶が鮮明にフラッシュバックした。
――早産で、冷たくなってしまった自分の赤ん坊の顔。抱くことさえ許されなかった、小さな、小さな命。
息が、詰まる。心臓が握り潰されるような痛みに、立っていることさえ困難になる。
だが、ここで崩れるわけにはいかない。
凛はハンドバッグから、予め用意していたもう一枚の書類を取り出した。そして、それをテーブルの上に置いた。
離婚協議書。
暁の眉が、微かに動く。
凛はペンを握ると、一切の迷いなく、自分の名前を書き込んだ。紙が、強すぎる筆圧で僅かに裂ける。
書き終えた協議書を、暁の方へ押しやる。
暁は協議書を一瞥すると、喉の奥でくつくつと笑い声を上げた。
「妻の座にしがみつくのをやめたと思えば、今度はあっさりサインか。本当に底の浅い女だ」
侮蔑の言葉が、容赦なく浴びせられる。
その言葉に、凛の中で張り詰めていた糸が弾け、絶望が怒りへと変わった。
「……なら、せめて父の治療費と私の命の値段として、一千万円払いなさい!」
声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に抑え込んだ。これは治療費だ。そして、父を救うための金だ。自分にそう言い聞かせる。
暁は、その要求を聞いて鼻で笑った。
「一千万? 高橋の借金返済の足しにでもするつもりか。浅ましい」
凛が何か反論しようとした、その時。胃の底から、錐で抉られるような鋭い痛みが突き上げた。
「うっ……!」
思わず腹部を押さえ、その場にうずくまりそうになる。冷や汗が、額に滲んだ。
暁は、その様子を冷ややかに見下ろしていた。
「まだ続けるのか。大根役者め」
その一言が、凛の心に決定的な亀裂を入れた。ああ、もう、終わりなんだ。何もかも。
暁が胸ポケットから、愛用のモンブランの万年筆を取り出す。キャップを外す時の、カチリ、という金属の冷たい音が、やけに大きく室内に響いた。
彼は流れるような筆跡で、鷹司暁、とサインをする。
そして、書き終えた協議書を、まるでゴミでも捨てるかのように、凛の顔めがけて投げつけた。
紙の端が、凛の頬を掠めて床に落ちる。ヒリヒリとした小さな痛みが、屈辱をさらに際立たせた。
「一千万程度で、お前との腐れ縁が切れるなら安いものだ」
冷酷な言葉が、凛の自尊心を粉々に砕け散らせた。
涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。凛は床に這いつくばるようにして、その一枚の紙切れを拾い上げた。
ゆっくりと立ち上がり、暁に背を向ける。この家から出ていく。一刻も早く。
リビングから寝室へと続く、長い廊下を歩く。壁には、二人の結婚式の写真が飾られていた。幸せそうに微笑む、過去の自分。凛は無言でその写真に手を伸ばし、額縁ごと壁に伏せた。
寝室のドアを開ける。かつて二人が過ごした空間は、暖房が効いているはずなのに、骨身に染みるほど冷たく感じられた。
クローゼットの奥から、スーツケースを引き出す。
最低限の衣類だけを、乱暴に詰め込んでいく。暁が買ってくれた高価なドレスや宝飾品には、一切触れなかった。それは、凛の最後の意地であり、決別の意志表示だった。
荷造りを終えた凛は、スーツケースを引きずりながら夜の街へと逃げ出した。冷たい雨の中、タクシーを拾い、安宿の小さな部屋に逃げ込む。眠れない夜を明かし、翌日の昼下がり。スマートフォンを取り出し、連絡先をスクロールする。ふと、「小林大輔」という大学の先輩の名前に目が止まった。実家が大きな医療グループを経営している彼なら……。しかし、数年疎遠だった彼に金の無心などできるはずもなく、親指は画面の上で虚しく止まった。
その時だった。
ブブブ……と、スマートフォンが震えた。画面には、病院のスタッフである中村結衣の名前が表示されている。
嫌な予感が、背筋を走った。
凛は震える手で電話に出る。
「もしもし……」
『凛さん!? 大変! 正彦さんが……!』
中村の焦りきった声が、耳に飛び込んできた。
『お父様が、心臓発作で……! 今、病院に運ばれて……!』
凛の頭の中が、真っ白になった。スマートフォンを取り落としそうになるのを、必死で握りしめる。呼吸が荒くなり、心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
「……すぐ、行きます!」
叫ぶように言うと、スーツケースをその場に放置して安宿の部屋を飛び出した。
外は、いつの間にか雨がポツポツと降り始めていた。
凛は濡れるのも構わず、大通りに向かって走り、必死に手を振る。
ようやく一台のタクシーが停まり、それに乗り込む。
「病院まで、急いでください!」
運転手に叫ぶ。窓ガラスに映った自分の顔は、青ざめて、まるで死人のようだった。絶望の淵に立たされていることを、凛ははっきりと自覚した。
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