
余命宣告された妻の偽装死:冷酷な夫の遅すぎる後悔
章 3
タクシーのタイヤがアスファルトを削る音が、やけに大きく聞こえた。
病院の救急入口に車が着くやいなや、凛は転がるようにして降り、廊下を全力で走った。息が切れ、肺が張り裂けそうだったが、足を止めることはできない。
ICUと書かれたランプの前で、ようやく足を止める。膝が笑い、その場に崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついてなんとか堪えた。
「高橋さん!」
中から出てきたのは、凛の主治医でもある加藤医師だった。その深刻な顔つきを見ただけで、凛の心臓は氷水に浸されたように冷たくなる。
「父は……父の容態は……!」
すがりつくように問いかける凛に、医師は静かに首を横に振った。
「危険な状態です。緊急の心臓バイパス手術が必要です」
その言葉に、凛の顔から血の気が引いていく。壁に寄りかかり、ずるずるとその場に座り込んでしまいそうになるのを、必死でこらえた。
医師は、冷酷な現実を突きつける。
「最新の医療機器を使用するため、保険適用外となります。申し訳ありませんが、手術を開始するには、まず保証金として即金で五百万円が必要です」
五百万円。
凛の頭の中で、その数字が反響した。自分の銀行口座は、高橋家の破産手続きの影響で、ほぼ全ての資産が凍結されている。手元にある現金は、数万円だけ。
絶望で、目の前が再び暗くなった。
「こちらが手術の同意書です。お支払いの目処が立たなければ、我々も手術を始めることは……」
事務的に差し出された書類を、凛はただ見つめることしかできなかった。唇を強く噛み締めると、鉄の味が口の中に広がった。
他に、方法はない。
凛はふらつきながら立ち上がると、ポケットからスマートフォンを取り出した。プライドも、何もかも、かなぐり捨てるしかなかった。
震える指で、鷹司暁の携帯番号をダイヤルする。
プルルル……プルルル……
呼び出し音が、自分の心臓の鼓動のように大きく響く。一回、一回、鳴るたびに、希望が削られていく。
『……何の用だ』
電話が繋がり、耳に突き刺さってきたのは、不機嫌で冷たい声だった。
凛は、砕け散ったプライドの破片を飲み込んだ。
「……お願い、します。お金を、貸してください。父の、手術費用が……」
電話の向こうで、暁がフッと冷笑する気配がした。
『ほう。先ほど一千万円を要求したばかりの女が、舌の根も乾かぬうちに金の無心か』
「あれは、まだ受け取っていません! お願い、五百万でいいの。父の命がかかっているの……!」
涙声で訴える凛に、暁は追い打ちをかけるように、残酷な言葉を吐き捨てた。
『高橋正彦の命に、五百万円の価値があるとでも?』
その瞬間、凛の全身の血が、沸騰するような怒りで熱くなった。
「父を、見殺しにする気なの!?」
『自業自得だろう。因果応報という言葉を知らんのか』
冷酷な声が、凛の心に氷の刃のように突き刺さる。
『そもそも』と、暁は続けた。『高橋家の資金繰りが、なぜ急に悪化したか。偶然だとでも思っているのか?』
その言葉に、凛の瞳孔が驚きで見開かれた。
「……まさか。あなたなの? 父の会社を破産させたのは、あなたの仕業だったの……?」
暁は、その問いに明確には答えなかった。ただ、全てを肯定するかのような冷たい笑い声を残して、一方的に電話を切った。
ツーツー……
スマートフォンから響く無機質な音が、死の宣告のように聞こえた。
**凛はスマートフォンを握りしめたまま、その場にへたり込む。**堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出し、冷たい床を濡らした。
どれくらいそうしていただろうか。
凛は、乱暴に涙を拭い去ると、ゆっくりと立ち上がった。悲しみは、いつしか激しい憎悪へと姿を変えていた。
ICUのガラス越しに、たくさんの管に繋がれた父親の姿が見える。
――絶対に、死なせない。
凛はガラスに手をつき、強く、強く誓った。
他に、方法はない。 凛は、震える手で自分の持ち物をまさぐった。財布には、わずかな現金しかない。絶望的な気持ちで、ふと左手の薬指に視線を落とす。そこには、鈍い光を放つものがあった。鷹司暁から贈られた、巨大なダイヤモンドの婚約指輪。
(これだ……!) 一瞬、吐き気がこみ上げた。あの男との決別の証として、身につけていた高価な宝飾品は全て置いてきたはずだった。だが、この指輪だけは、長年肌身離さず着けていたせいで、まるで皮膚の一部のように指に食い込み、あの時も無理に外すことができなかったのだ。
凛は、その指輪を外そうとした。しかし、やはり簡単には抜けない。
「くっ……!」 構うものか。父の命がかかっているのだ。
無理やり引き抜くと、薬指の皮膚が赤く腫れ上がり、血が滲んだ。
指輪を、強く握りしめる。これを売れば、五百万になるかもしれない。いや、しなくてはならない。
迷いを断ち切り、凛は病院の出口へと向かった。
外は、すっかり日が落ちていた。冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。
タクシーを拾い、行き先を告げる。
「銀座まで、お願いします」
車内で、手のひらの指輪を見つめる。かつての甘いプロポーズの言葉が蘇る。『一生、君を守る』。その言葉は、今ではただの吐き気を催す記憶でしかなかった。
やがて、銀座の華やかな街並みが見えてくる。まばゆいネオンが、今の自分の惨めさを、より一層際立たせるようだった。凛は目を閉じ、胃の奥の痛みに耐えた。
タクシーを降り、高級ジュエリーショップの重厚なドアの前に立つ。ふと、店の前に見覚えのある黒いマイバッハが停まっているのが視界の端に映った。鷹司家の車だ。しかし、父の命を救うことで頭がいっぱいの凛は、その意味を深く考える余裕もなく、店内へと足を踏み入れた。
店内の眩しい照明に、一瞬目が眩む。店員の木村と名札をつけた女性が、雨で少し濡れた凛の姿を見て、いぶかしげな視線を向けた。
凛は構わずカウンターに近づき、握りしめていた指輪を差し出した。
「これを、買い取っていただきたいのですが」
声が、少しだけ震えた。
木村は指輪を受け取ると、ルーペで確認し、その価値に驚いたような表情を見せた。すぐに奥の支配人を呼びに行く。凛は焦燥感に駆られながら、その背中を見送った。
その時だった。
背後から、砂糖を煮詰めたような甘ったるい声が聞こえた。
「あら、凛さん? こんな所で、何をしていらっしゃるの? 私、暁さんとの婚約指輪を選びに来たのだけれど……奇遇ね」
その声に、凛の背筋が凍りついた。
ゆっくりと振り返る。そこには、高級なシルクのドレスに身を包んだ、佐藤花音が立っていた。彼女の口元には、全てを見透かしたような、嘲りの笑みが浮かんでいる。
花音は、凛の惨めな姿を上から下まで、舐め回すように見た。
「まあ、大変。もしかして、お金にお困り?」
わざとらしく同情する声色に、凛は吐き気を覚える。
無視してカウンターに向き直ろうとした凛の腕を、花音が掴んだ。
その時、店の入り口のベルが鳴り、長身の影が店内に入ってきた。
鷹司暁だった。
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