
清水さん、お元気でしたか。元夫の天敵に三年越しで溺愛されています
章 3
腹部を押さえ、呻きながらゆらりと身を起こした佐藤寛が、憎々しげに吐き捨てる。 「どこのどいつだ、命知らずにもこの俺様に手ぇ出しやがって。 ぶっ潰して……」
しかし、その罵詈雑言は不自然に途切れた。 視線の先に立つ男が新井湊だと認識した瞬間、まるで氷水を浴びせられたかのように凍りつき、わなわなと震えだしたのだ。
さっきまでの威勢が嘘のように萎み、彼はへこへこと湊に駆け寄ると、卑屈な笑みを顔に貼り付けた。
「これはこれは新井社長! 一体どのような風の吹き回しで?」
その変わり身の早さは、もはや滑稽ですらあった。
湊はそんな男をまるで路傍の石でも見るかのように一瞥もくれず、ただ冷淡な視線で清水瑠衣を捉えている。
「失せろ」
氷のように冷たい声で湊はただ一言そう告げた。 「は、はいっ! ただちに失礼いたします!」
寛は這う這うの体で部屋を飛び出していく。 男が去った個室には、
重たい沈黙が二人を隔てる壁のように横たわっていた。 どちらも口を開かず、 張り詰めた空気の中では、 自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。
この男の真意が読めず、瑠衣は探るように言葉を紡いだ。 「先ほどは……お助けいただき、ありがとうございました、新井社長」
湊は無造作に、しかしどこか優雅な仕草で椅子を引き、静かに腰を下ろすと、瑠衣がテーブルの上に揃えていた資料へふと目を落とした。
「いえ、お気になさらず」
感情の読めない平坦な声。 彼がゆっくりと資料をめくるその掴みどころのない態度に、瑠衣の胸中は戸惑いの霧に包まれるばかりだった。
立川蒼空の妻である自分。 業界の者なら誰もが知るこの関係性を、
そして、 その最大の宿敵である新井湊。この男は気まずいとは思わないのだろうか。
この重苦しい空気を振り払うように、瑠衣は小さく咳払いをした。 「新井社長、申し訳ありません。 急用を思い出しましたので、本日はこれで。 このご恩は、日を改めて必ず」
言い終わるやいなや、彼女は資料を抱え、逃れるように席を立とうとした。
しかし、その動きは、骨張った長い指に阻まれた。 湊の手が、彼女より一瞬早く資料の上に置かれていたのだ。
彼の左手小指で、金色のピンキーリングが照明を受けて閃光を放った。 砕氷を思わせるダイヤモンドの輝きの中に、小さなアルファベットが刻まれているのが見て取れたが、それが何という文字なのかまでは判然としない。
湊は顔を上げ、深く、すべてを見透かすような眼差しで彼女を見つめた。 「清水さん、私はあなたの写真家としての才能を高く評価している。 私の会社に興味はありませんか?」
思わぬ言葉に、瑠衣は思わず息を呑み、訝しげに湊を見つめ返した。
「ですが、私の立場はご存じのはずです。 立川蒼空と、社長は……」
「私の評価対象は、あくまで写真家としてのあなたの才能。 それ以外の何かが、仕事に関係するとでも?」
とん、と湊は指先で資料を軽く叩いた。
「もし同意してくださるなら、明日にも弊社へ。 その際には、あなたに満足してもらえるだけの入社祝いも用意しますよ」
瑠衣の思考は、まるで嵐の中の小舟のように揺れていた。
なぜ、この男が自分に手を差し伸べるのか。 いくつもの疑問符が頭の中を駆け巡るが、答えは見つからない。 逡巡の末、彼女は意を決して口を開いた。
「新井社長……大変申し訳ありません。 せっかくのお申し出ですが、今回はお断りさせていただけますでしょうか」
湊の問いは、短く、鋭利な刃物のように核心を突いていた。 「立川蒼空が、理由ですか?」
その瞬間、なぜか再び、彼の指輪に刻まれたアルファベットが瑠衣の網膜に焼き付いた。
それは、小さな「s」の文字に見えた。
「いえ、違います」
立川蒼空の名を聞いた途端、瑠衣の瞳から戸惑いの色が消え、氷のような冷たさと、隠しようもない嫌悪が浮かび上がった。
湊の視線は凪いだ湖面のようでありながら、底知れぬ冷たさを湛えている。
長年、業界の頂点に立ち続けた者だけが放つ。
絶対的な威圧感。
ただ椅子に腰かけているだけなのに、 その存在は瑠衣の呼吸さえも圧迫するようだった。抗いがたいプレッシャーの中、 彼女は本音とも建前ともつかぬ言葉を絞り出した。
「私はただの写真家でして、もう何年も組織というものから離れております。 ですので、新しい環境に順応できる自信がございません」
その答えを聞いた湊の唇に、 初めてと言っていいほどの微かな笑みが浮かんだ。 まるで全てお見通しだと言わんばかりに、
珍しく言葉を続ける。
「組織に馴染む必要などありません。 あなたには、あなたの得意なこと――好きなことを続けてもらえばいい。 新井グループでは近々、公益CMの撮影を予定していましてね。 あなたのレンズが、いかに巧みに人の感情の機微を捉えるか、私はよく知っています」
瑠衣は唇を固く引き結び、沈黙の中で思考を巡らせた。
ここ数年、個人スタジオを運営してきた。
不安定さと引き換えに、何物にも代えがたい自由があった。
一度契約を結べば、その自由は失われる。
だが、その自由も、立川蒼空という名の重圧と、日に日に嵩む母の治療費の前では、もはや風前の灯火だった。
そして、目の前にいるこの男こそが、増長する蒼空を止められる唯一の切り札かもしれないのだ。
瑠衣の葛藤を見抜いたかのように、湊は絶妙な間で言葉を継いだ。
「なんなら、あなたのスタジオに私が個人として投資する形でも構いません。 そうすれば、あなたは引き続きオーナーとして、今の自由を保てる」
もはや、断る理由はどこにもなかった。 彼が提示したのは、そういう条件だった。 だからこそ、拭えない疑念が心をよぎる。
「新井社長、一つだけお伺いしても? なぜ、私なのでしょうか。 新井グループほどの企業なら、腕の立つ写真家など綺羅星のごとく集まるでしょう。 その中で、なぜ私を?」
一瞬の逡巡ののち、瑠衣は覚悟を決めたように、まっすぐに湊を見据えた。
「もし、社長が私と立川蒼空との関係を考慮されてのことでしたら、今ここではっきり申し上げておきます。 私たち夫婦は、すでに離婚に向けて準備を進めておりますので」
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