
「夫は捨てる、子供だけ取る」──そう決めた私が、今さら気づいた。元夫の愛していたのは、私だった。
章 1
「花梨、もうすぐ出棺だけど、浩司はまだ来ないの?」
谷口花梨は黒い喪服に身を包み、母の遺影の前でひざまずいていた。 燭台の炎が、血の気の失せた彼女の顔を照らしている。
充電が切れかかったスマートフォンに目を落とすが、清水浩司からの電話は一向に繋がらない。
母親が亡くなり、花梨は妊娠7ヶ月の体で7日間も通夜と葬儀の準備に追われていた。それなのに、結婚して3年になる夫は1度も姿を見せていない。
浩司は仕事が非常に忙しい。 花梨は、ずっと彼のことを理解しようと努めてきた。
きっと仕事が忙しくて、来られないのだと、そう自分に言い聞かせるしかなかった。
「きっと忙しいのよ。 だから来られないんだわ」
花梨は乾ききらない涙の跡が残る顔で、手に持った線香を香炉に立てた。 そして、重い体を無理やり起こし、すでに嗄れた声で言った。 「……そろそろ、出棺の時間です」
そばにいた親戚の佐々木恭子が、棘のある口調で言った。 「花梨、浩司さんは一体どれほど忙しいのかしら。 七日間も姿を見せないなんて、あなたのお母様に対してあまりにも失礼じゃない」
彼女の従妹である谷口栞菜が鼻で笑った。「お母さん、違うわよ。 浩司さんが伯母さんを軽んじているんじゃなくて、花梨姉さんのことなんて、最初からどうでもいいと思ってるのよ。 ああ、それから、お腹の子のこともね」 その嘲るような言葉が、花梨の胸に突き刺さった。
だが、彼女はそれでも自分に言い聞かせた。 結婚して以来、浩司はいつも良き夫だった。 わざと来ないはずがない。 きっと仕事が忙しくて、身動きが取れないのだと。
だが——そう自分に言い聞かせた、まさにその瞬間、現実が彼女の頬を思い切り殴りつけた。
栞菜がスマートフォンを見て、甲高い声を上げた。 「これ、浩司さんじゃない?ネットのトレンドニュースになってるわよ」
栞菜はわざと花梨の目の前にスマートフォンを突き出した。
花梨が画面に目を落とすと、そこにはトレンド動画が表示されていた。 今朝公開されたニュースで、内容は昨夜のものだった。
タイトルにはこう書かれていた。「#清水グループ社長、本命の菊池瑞希を貸し切りで誕生日祝い」
動画の中——夜空一面に咲き誇る、絢爛たる花火。傍らの椅子に優雅に腰を下ろした男が、深い眼差しで、静かにすぐ隣の少女を見つめている。少女は花火を指さし、その笑顔は、花火よりもなお眩しかった。
花火は絢爛だったが、花梨の視線はただ、その男の後ろ姿に釘付けになった。
その背中は、彼女にとってあまりにも見慣れたものだった。 一目で、動画の中の男が自分の夫、浩司だと分かった。
じゃあ——昨夜、彼は別の女と花火を上げ、誕生日を祝っていたっていうの?
花梨の頭はしばらく真っ白になり、体は硬直して動けなくなった。
花火の炸裂する音に混じって、栞菜の嘲る声が響く。「花梨姉さん、『忙しい』って言ってたわよねぇ? そりゃあそうよね——別の女に会場貸し切って、誕生日を祝ってあげるのに、大忙しだったんだから」
花梨は拳を固く握りしめた。 脳裏には、浩司が別の女のために花火を上げる光景が焼き付いている。
彼は仕事が忙しいのだと、そう思っていた。
母が亡くなるという一大事でさえ、彼に迷惑をかけまいと、一人で耐え忍んできた。
七日間、彼は彼女からの電話に一度も出ず、彼女の母のために線香を一本も上げに来なかった。 それなのに、別の女のために会場を貸し切って花火を上げ、誕生日を祝う時間はあったのだ。
なんて滑稽なことだろう。
動画の中の女は、浩司の初恋の相手であり、彼が深く愛した女だった。
そして自分は——浩司の祖父が、父の命を救ってもらった恩に報いるため、彼女に身の置き場を与えようと、浩司に娶らせただけの妻。それだけだった。
この三年間、花梨は彼が自分を愛していないことを知っていた。 だから、自分のことで彼に迷惑をかけることなど一度もなく、何かを望むことさえしなかった。
彼女の目には、浩司は冷淡でロマンチックなことなど知らない男に映っていた。 彼はどんな祝日にも無関心で、生活は仕事一色だった。
今日、初めて知った。浩司はロマンチックを知らないんじゃない。ただ——彼女には、したくなかっただけなのだと。
あの華やかな、大輪の花火が——花梨を、最大の道化役に仕立て上げたのだ。
花梨は歯を食いしばり、心の痛みを必死に押し殺した。 視線をスマートフォンから外し、惨めに見えないよう努めた。
母の出棺は、自分が仕切らなければ。……しっかりしろ。
花梨は無理やり腰をかがめ、母の遺影と位牌を抱き上げた。 周囲の嘲るような視線を無視し、その場を後にした。
花梨は思い出していた。母が最期に、もう一度だけ浩司に会いたがっていたことを。
あの時も電話は何度もかけた。一度も出なかった。きっとあの時も——彼は、瑞希のそばにいたのだろう
母は願っていた——浩司と、いつまでも幸せに、と。
でも、それはもう、叶わない。
すべてを一人で取り仕切り、会食を終え、親族たちが皆帰ったあと——花梨はぽつんと、会場の椅子に座り込んでいた。
その時、浩司が遅れて現れた。 彼は黒いシャツを着ており、その端正な顔には何の表情も浮かんでいない。 彼の視線が花梨に注がれ、目の前の光景を認めると、普段は感情を表に出さないその顔に、珍しく一瞬の申し訳なさの色が浮かんだ。
花梨は腹に手を当て、彼を見上げた。その瞬間——ずっと押し殺してきたやるせなさが、堰を切ったように込み上げる。
花梨は深く息を吸い、その想いを無理やり飲み下した。顔に何の感情も浮かべず、静かに問う。「……今、仕事が終わったの?」
浩司は、彼女の声に隠された脆さに気づかなかった。
「昼間、重要な会議があった」
「じゃあ、 昨夜は? 誕生日、楽しかった?」
浩司が眉をひそめた。 彼が口を開く前に、赤いワンピースを着た女が彼の後ろから入ってきた。 肩には彼のジャケットが羽織られている。
その光景を見て、花梨の顔はさらに曇った。 その女は瑞希だった。 彼女は口を開いた。
「花梨、ごめんなさい。昨夜、浩司は私と一緒だったの。数日前に母が体調を崩してしまって……浩司ったら、私一人じゃ心細いだろうからって、看病を手伝ってくれて。それで、あなたの連絡に気づくのが遅れたの。全部、私が悪いのよ。浩司に甘えちゃって——本当にごめんなさい」
瑞希の言葉に、花梨の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
「お母様は、そんなに重い病気なの?」
「いいえ、大したことないの。 ただの風邪と熱で、もうほとんど良くなったわ」
花梨の心臓を、重い拳で思い切り殴りつけられたような衝撃。必死に堪えようとしたが——赤く染まった目尻と、震える唇が、どうしても彼女の内心を裏切ってしまう。浩司の眉間の皺が、さらに深くなった。
彼は花梨の母が亡くなったという知らせを、会議中に受け取った。 会議が終わった後、こちらに来るつもりだったが、瑞希の方でまた何か問題が起きた。 立て続けに用事が入り、忙しくしているうちに、花梨のことはすっかり忘れてしまっていた。
いずれにせよ、彼は申し訳なく思っていた。
浩司が花梨の母のために線香を上げようと一歩踏み出すと、花梨は手を伸ばして彼を制した。 「いいえ。 菊池さんのお母様の方が大事でしょう。 あなたは彼女と、彼女のお母様のそばにいてあげて」
浩司の足が止まった。
花梨は一刻も早くこの場を離れたかった。 彼女は立ち上がり、その場を去ろうとした。
彼女は泣かなかった。 泣く価値もない相手のために、涙を流すことなど許せなかった。
妊娠七ヶ月——重そうな身体を引きずるように歩く花梨の背中を見て、浩司は、ふと胸の奥がつきんと痛むのを感じた。
瑞希は、母が病気になっただけで、助けを求めて彼に電話をかけ、あんなに悲しそうに泣いた。 それなのに、花梨は母が亡くなったというのに、一人で耐え抜いたのだ。
「どこへ行く? お前は妊娠しているんだ。 むやみに動き回るな」浩司は彼女を引き留めようとした。
花梨は自嘲気味に笑った。
まだ、自分が妊娠していることを覚えていたのか。
妊娠中の妻を放り出し、他人の母親の看病に駆けつける。 彼が自分とこの子を全く気にかけていないことは明らかだった。
父親に望まれず、気にもかけられない子は、生まれてきても幸せにはなれない。
花梨は自分の腹に目を落とした。 計り知れない苦痛の中、彼女は何かを決意したようだった。 彼女は足早に歩き、そのままエレベーターに乗り込んだ。
浩司の胸がざわつき、すぐに後を追おうとしたが、瑞希が彼を引き留めた。 「浩司、花梨のお母様が亡くなったばかりなのよ。 少し一人にしてあげたらどうかしら」
浩司は眉をひそめて瑞希を一瞥し、彼女の手を振り払った。 低く冷たい声で言った。 「あいつは今不安定だ。何をするか分からない。お前は先に帰れ」
浩司が追いかけた時、すでに花梨の姿はどこにもなかった。
行き交う車を眺めながら、浩司はスマートフォンを取り出して電話をかけた。 「すぐに花梨の携帯電話の位置を特定しろ。 すぐに見つけ出すんだ」
彼の端正な顔に、不安の色が浮かんでいた。
一時間後。
アシスタントから浩司に電話が入った。 『社長、奥様は今、病院にいらっしゃいます』
「病院で何をしている?」
「妊娠中絶の手術を受ける準備を……それから、奥様はすでに弁護士に離婚協議書を作成させ、ご自身で署名されています」
耳の奥で、キーンという鋭い音が鳴り響いた。
彼の深い眼差しに、信じられないという表情が満ちていた。
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