
クズ元夫の浮気後、温水妃都美は“死亡”から頂点へ返り咲く!
章 2
温水妃都美はありふれた黒のフォルクスワーゲンを運転し、六重研究所の敷地へ滑り込ませた。
オフィスビルへ足を踏み入れた途端、先輩の徳岡帆夏に腕を掴まれた。 「あんた、本当に書類を出しに来ただけ?一体何があったのよ、LINEしても既読無視だし。 これは遊びじゃないの。 本気だとしても、江戸川幸高とちゃんと話してからに決まってるでしょ」
妃都美の鼻の奥がツンと痛んだ。
彼女は何も言わずにスマホを取り出すと、LINEのトーク画面を開き、帆夏の前に差し出した。
挑発的なメッセージと画像は、一日や二日のものではない。 写真の内容に至っては、さらに目に余るものだった。
帆夏は数秒、画面を睨みつけるように目を通すと、スマホを妃都美に突き返し、勢いよく袖をまくり上げて怒りを爆発させた。
「あのクズ野郎……!あんたの特許がなきゃ、あいつのグループがここまで大きくなれたと思ってんの?浮気なんて芸当を覚えやがって。 行くわよ、お姉さんと一緒に戻って八つ裂きにしてやるから」
「必要ありません」妃都美は手を伸ばして制した。 「どういうこと?あんなにコケにされて、このまま黙って見てるつもり?」
「まさか」
妃都美はスマホをポケットにしまい、星を宿したような瞳が、今は刃のように冷たい光を放っていた。 「ただ騒ぐだけなんて、生温すぎます。 自分のしたことの代償は、きっちりと払わせますから」
帆夏は、この後輩をよく知っていた。
研究においては天才肌で、心根は純粋そのもの。 だが同時に、目に砂が入ることを決して許さず、一度その一線を越えられれば、必ず痛烈な反撃に出る人間だ。
帆夏はそれ以上何も言わず、二人は並んでオフィスへと戻った。
申請書の記入は滞りなく進み、いくつかの手続きと押印を済ませ、あとは最終審査を待つばかりとなった。
帰り際、妃都美は臨時の任務を言い渡された。 ある学術講演会に出席し、会議資料を持ち帰るというものだった。
午後三時半。
天沢ホテル。
妃都美は会議を終え、資料の入ったファイルを手にロビーを抜け、駐車場へ向かおうとした。 その時、不意に、聞き覚えのある低い笑い声が鼓膜を打った。
「こら、暴れるな。 いい子にしてろ」
全身が強張り、妃都美は反射的に斜め向かいへ視線を上げた。
江戸川幸高が、長い髪に細い腰の女を大きな手で抱き寄せ、ホテルの中へと消えていく。 女は舌足らずな中国語で、甘ったるい声を出す。 「会いたかった……すごく、会いたかったの……」
言い終えるが早いか、女は幸高の首に腕を絡め、吸い付くようにキスをした。 真紅の唇が、彼の耳たぶから喉仏へと滑っていく。
幸高はくぐもった声で笑い、その瞳はどこまでも甘やかすような色に満ちていた。 大きな手が女の腰を揉みしだき、焦れるように、そして熱烈に、己の胸へと引き寄せる。
その光景が、妃都美の目を焼くように痛めつけた。
やはり、あの女も来ていたのだ。 白昼堂々、二人して待ちきれないとばかりにホテルへ吸い込まれていく。
回転ドアのガラス越しに、幸高と妃都美の視線が、まるで運命の悪戯のように絡み合った。
一方は情欲に溺れ、黒く深く人を惹きつける。
もう一方は自嘲と冷笑を浮かべ、氷のように静まり返っていた。
空気が張り詰める。 幸高の腕に抱かれた女も妃都美の存在に気づき、赤い唇を歪めて笑うと、再び幸高の薄い唇に己のそれを重ねた。
見せつけるような、深く長いキスだった。
吐き気がこみ上げ、妃都美はそれ以上見るに堪えず、冷笑を浮かべて踵を返した。
車のドアを開けた瞬間、背後から伸びてきた腕がドアを強く押さえた。 追いついてきた幸高は、わずかに息を弾ませている。 その体からは、女の熱く燃えるような香水の匂いが立ち上り、吐き気を助長させた。
「離して!」
妃都美が渾身の力で押し返そうとするも、ドアはびくともしない。
次の瞬間、腰を抱えられて後部座席に押し込まれ、間髪入れずに幸高も乗り込んできた。 その冷徹な顔には焦りが浮かび、深い瞳の奥には火が宿っている。
「妃都美、説明させてくれ」
逃げ場を失い、妃都美はシートの端へ身を寄せた。 その声は、極限まで冷え切っている。
「その口紅……拭ってから話してください」
幸高の表情が強張り、無意識に手で口元を擦る。 瞳の動揺は一瞬でかき消された。
「錦奈プロジェクトでトラブルがあって、投資の件で頭を抱えてたんだ。 納葉財団に連絡したら、ベルがあそこの令嬢でね。 留学中の世話を頼まれたんだよ。 日本語も不慣れだし、さっきは酒も入っていたから、ホテルまで送っただけだ」
彼の声はいつものように甘く響き、体を寄せてくる。
「フォンテ国の人間がオープンなのは知ってるだろ?約束する、これからは気をつけるから。 な、機嫌直してくれよ……ほら、キスしていい」
妃都美は顔を上げた。 秋風のように温度のない瞳で幸高を見据え、その口調は凪いだ水面のように穏やかだった。
「そこまで密着してお世話しないと、投資は受けられないのですか?」
騒ぎもせず、ヒステリックに詰問することもない。
目の前の妃都美は、まるで柔らかな綿のようでありながら、その冷たい一言は、幸高の弁明を空虚な戯言へと変えてしまった。
あの底なしの空虚感が再び彼を襲い、幸高は苛立たしげにネクタイを緩めた。
「妃都美、俺は仕事のためにやってるんだ。 そういうわがままは、やめてくれないか」
妃都美は、ただ滑稽だと思った。
自分は、騒いでもいないのに。
スマートフォンに収められた、人には見せられない写真の数々を叩きつけてこそ、初めて「騒ぐ」というのだろう。
長年育んだ情愛は、今や心の先端を灼く、真っ赤な刃と化していた。
「江戸川幸高さん。 もし今の生活に飽きたのなら、はっきりそう言ってください。 離婚します。 未練がましく縋ったりはしませんから」
なぜ、私を馬鹿みたいに騙し続けるの?
彼女が言い終わるか終わらないかのうちに、肩を強く掴まれた。
幸高の瞳は、恐ろしいほど冷たく沈んでいる。 「離婚なんて口にするな。 約束したはずだ、何かあればその都度解決する、と。 離婚の二文字だけは、絶対に許さない」
解決?
浮気をして他の女と寝ておいて、一体どう解決するというのだろう。
妃都美は、自分が茨の檻に閉じ込められているように感じた。 少しでも身じろぎすれば、全身が傷だらけになる。
唐突な着信音が静寂を破り、幸高は冷たい顔でスマホを取り出すと、一瞥してすぐに通話を切った。
だが、妃都美の目には着信画面の表示が映ってしまっていた。 「ハニー猫ちゃん」。
スマホをしまう間もなく、画面が再び点灯する。
LINEの通知がポップアップした。 表示名は「ファイヤーベイビー」。
「ダーリン、怪我しちゃった。 すごく痛い」
「あなたがいなきゃダメなの。 早く来て」
「血が出てる……私、死んじゃうの?」
立て続けに三件。 すべてフォンテ語だった。
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