
クズ元夫の浮気後、温水妃都美は“死亡”から頂点へ返り咲く!
章 3
彼女に読まれることなど意にも介さない様子で、江戸川幸高は「至急」とだけ素っ気なく返信し、そのまま画面を暗転させた。
「妃都美、急用だ。 役立たずなら騒ぐな、鬱陶しい。 いい子にしてろ」
温もりを帯びた大きな手が、まるで子供をあやすように妃都美の頭を撫でた。 足早に去っていく江戸川幸高の背中を、彼女は引き止めなかった。
胸を繰り返し引き裂くような痛覚は、とうに麻痺していた。
感情のない機械のように資料を研究所へ戻し、保管手続きを済ませると、彼女は自宅へと車を走らせた。
それから三日、江戸川幸高は帰らなかった。
妃都美もまた、彼に連絡することはなかった。
審査を待つ空虚な時間、彼女はひたすら物品の整理に費やした。
物置には、長年の歳月が積み上げた思い出が眠っている。
初めての告白を綴ったラブレター、初デートで作った不格好な陶芸品、山で流星群を見上げた夜に拾ったハート型の石、そして、分厚いアルバムが六冊……
ポラロイドカメラも、初期モデルから最新機種までがずらりと棚に並んでいた。
妃都美は記憶を形にして残すのが好きだった。 いつか白髪になった時、二人で共に過ごした日々を語り合う、そんな未来を夢見ていた。
だが今となっては、そのすべてが滑稽な戯言に過ぎない。 妃都美はそれらを一つ残らず暖炉に投げ込み、燃え尽きて灰に変わるのを静かに見つめた。
高価な贈り物も――ダイヤモンド、時計、ネックレス、そして結婚指輪さえも、すべて写真に収めて高級品買取店のオーナーに送り、売却を依頼した。
ジュエリーボックスが空になった時、妃都美は悟った。 千金に値すると信じた愛情も、裏切りの前では、愛こそが最も安価なのだと。
五日後、申請が受理された。
隔離研究が始まるまで、残り十日。
妃都美は服を着替え、必需品を揃えるためにショッピングモールへ向かった。 買い物袋を提げてエスカレーターを降りたその時、一階のジュエリーカウンターで、ある光景が目に突き刺さった。
いつも妃都美を見下していた義母の江戸川桂子が、真珠という女と親しげに腕を組み、満面の笑みを浮かべている。
そして、五日も家を空けていた夫が、慈しみに満ちた眼差しで、彼女が豪奢なダイヤモンドのブレスレットを着けるのを手伝っていた。
三人は、まるで本当の家族であるかのような親密さで寄り添っていた。
試着した品がよほど気に入ったのか、江戸川桂子は真珠のセンスを褒めそやし、ブラックカードを取り出して気前よく支払いをしようとしている。
温水妃都美の胸に、冷たい皮肉が込み上げた。
そのカードは、彼女のものだったからだ。
中には十分な金額がチャージしてあり、このブランドのディレクターと妃都美が親友であるため、最低価格での購入や、新作の優先的な確保が可能だった。
本来は、嫁姑の関係を和らげるきっかけになればと、江戸川桂子に贈るはずだったものだ。 それが今、義母と夫が愛人を喜ばせるために使われようとしている。
妃都美はためらうことなく真っ直ぐに彼らへと歩み寄り、店員の指からそのカードを抜き取った。
「申し訳ありませんが、このカードは使えません」
店員は呆気にとられた顔で妃都美を見た。
「お客様、こちらは当ブランドの至尊ドラゴンカードでございます。 無効になったり、期限が切れたりすることはございません」
「そう?」
温水妃都美はカードをパキリと音を立てて二つに折り、傍らのゴミ箱へ投げ捨てた。 「これで無効になったかしら?」
江戸川桂子は怒りに顔を歪ませ、振り上げた手で妃都美の頬を力任せに打ち据えた。
「パンッ」という乾いた音と共に、重い一撃が温水妃都美の頬を抉る。 「何てことをするの!少しは場を弁えたらどうなの!本当に育ちの悪い、家の恥よ!」
江戸川家は名門だ。
そして江戸川幸高は、金融界の天才と謳われる、気品に満ちた御曹司。
交際当初から、会うたびに江戸川桂子は妃都美に冷たく当たり、結婚してからはそれが更に酷くなった。 どれだけ尽くしても、どれだけ機嫌を取ろうとしても、笑顔一つ見せてはくれなかった。
それでも妃都美が耐えたのは、江戸川幸高を困らせたくない一心からだった。 何をされても決して言い返さず、彼に告げ口することもなかった。
妃都美の忍耐は、すべて、ただあの男を愛しているという一点のみで支えられていた。
だが、もう限界だった。 一分一秒たりとも、耐えるつもりはなかった。
「パンッ!パンッ!」
立て続けに響いた乾いた音が、江戸川幸高の顔面を二度、激しく打った。
その場にいた誰もが息を呑み、口元を覆った。
経済誌で神の如く崇められる、あの江戸川幸高が。
衆人環視のなかで、女に、頬を打たれたのだ。
「温水妃都美!」
江戸川桂子は怒りで袖をまくり上げ、再び妃都美に殴りかかろうとする。
温水妃都美は僅かに顎を上げ、怯むことなく言い放った。
「私を一度殴るなら、この男を二度殴る。 試す?」
「なっ、あなた……」
江戸川桂子は憤りのあまり胸を押さえた。
「幸高、見なさいよ、この女のヒステリーを」
温水妃都美は冷ややかな笑みを浮かべ、幸高に向き直った。
「殴られて当然、そうでしょう?」
男は頬の内側を噛み締め、その顔には凄まじい怒気が立ち上っていた。 彼は妃都美の元へ歩み寄るとその腕を掴み、低く押し殺した声で言った。
「妃都美、気が済んだならもうやめろ。 いい加減にしろ」
その時、隣にいた曽我真珠が江戸川幸高の胸に飛び込み、彼の手を取って自分の腰に当てさせると、流暢なフォンテ語で温水妃都美の横暴さを訴え始めた。
一言ごとに「ダーリン」と呼びかけ、骨がないかのように男の体に絡みつく。
江戸川幸高もまた、フォンテ語で彼女をなだめ始めた。
二人の熱のこもったやり取りを耳にしながら、温水妃都美は思わず笑ってしまった。
突如、彼女の唇から、同じように滑らかなフォンテ語が溢れ出した。 その発音は、非の打ち所がないほど完璧だった。 「人の夫を寝取っておきながら、被害者ぶるのはやめたら?自分のしたことを認める度胸もないの?フォンテ語じゃ分が悪いなら、英語でもドイツ語でも日本語でもいいわ。 十六カ国語までなら対応できるから、好きなのを選んで。 口喧嘩で私に勝てたら、あなたの勝ちでいいわよ」
曽我真珠の顔が、瞬く間に朱に染まった。
まさか妃都美がフォンテ語を解するとは、夢にも思わなかったのだろう。
江戸川幸高は、彼女のことをただの平凡なOLだと言っていなかったか?
江戸川幸高の表情も険しくなり、声がこわばった。
「妃都美、いつフォンテ語を覚えたんだ」
その一言が、妃都美の心臓に突き刺さっていた刃を、さらに容赦なく抉った。
彼女は、この上なく皮肉な笑みを浮かべる。
「あなたって、本当に私のこと、愛してくれていたのね」
「ごゆっくりどうぞ。 お邪魔しました」
そう言い残し、妃都美はきっぱりと背を向けた。
江戸川幸高は慌てて後を追おうとしたが、江戸川桂子と曽我真珠に両腕を掴まれ、引き止められた。
「幸高、あんな下品な女とは離婚なさい。 よくもあなたの顔を殴ったわね!」
似たような言葉は聞き飽きるほど口にしてきたが、なぜか今日に限って、江戸川幸高の耳にはひどく不快に響いた。
「俺の問題だ」
幸高は二人の腕を振り払い、妃都美を追った。
駐車場で、車に乗り込もうとする彼女を、彼が呼び止める。
「妃都美」
手首に触れた熱が、まるで毒蛇の舌のように這い回り、妃都美は全身でそれを拒絶した。
彼女は忌々しげにその手を振り払う。
「江戸川社長。 可愛らしい子猫ちゃんとのお買い物はもうよろしいのですか?」
男の顔色が、みるみるうちに険悪なものへと変わっていく。
「曽我真珠は妹のようなものだ。 何を嫉妬している。 そんなに心の狭い女だったのか!大通りで、俺たちに恥をかかせたいのか?」
温水妃都美は呆れて笑ってしまった。
まるで、何もかも自分が悪いと言わんばかりの口ぶりだ。
「では江戸川社長のお考えでは、今後もしお二人の閨事を目撃したとしても、私は江戸川家の体面のために、慌ててカーテンを引いて差し上げるべきだと?」
江戸川幸高の手に、ぐっと力が籠る。 その瞳に宿る炎は、妃都美を焼き尽くさんばかりだった。
「言ったはずだ、彼女は妹だと!」
「ふふっ、妹、ね」
温水妃都美は彼を嘲るように見つめた。
突然、その瞳に、ふと妖艶な光が宿る。 「じゃあ私も素敵な『お兄さん』を見つけて、あなたがあの子としたこと、全部してあげる。 でも、嫉妬しないでね。 心が狭いなんて、言わないでくれる?――ねぇ、あなた」
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