
今更愛していると言われても、もう手遅れです
章 3
三日後。
頭を割るようなひどい頭痛と共に、俺は重い瞼を持ち上げた。
昨夜は雫と浴びるように飲みすぎたせいだ。
「おい、星奈。水だ」
俺はベッドから掠れた声を張り上げた。
いつもなら、即座に冷えたミネラルウォーターと鎮痛剤が運ばれてくるはずだ。
だが、返事がない。
「星奈!」
こみ上げる苛立ちと共に起き上がり、リビングへと向かう。
家の中が、妙に静かだ。
カーテンは閉め切られ、朝の光が入ってこない淀んだ空気が漂っている。
キッチンにも、誰の気配もない。
「チッ……どこへ行きやがった、あの女」
俺は舌打ちをし、ダイニングテーブルに目をやった。
そこには、冷ややかな光を放つプラチナの結婚指輪と、一枚の紙きれが置かれていた。
指輪?
俺は眉をひそめ、その紙を手に取る。
『離婚届は受理されました。共有財産の分与手続きも完了しています。荷物はすべて運び出しました。二度と探さないでください』
は?
俺は言葉の意味を理解できず、その場に立ち尽くした。
離婚? 誰が? 俺たちが?
「何よ、朝っぱらから大声出して」
寝室から雫が起きてきた。シルクのパジャマ姿で、気怠げにあくびをしている。
「隆成さん、どうしたの?」
俺は震える手で、その紙を握りしめていた。
「星奈が……出て行った」
「はあ? 家出? いい歳して?」
「いや、離婚だ。……俺のサインがある」
俺はテーブルの上の控えを見た。
確かに、俺の字だ。
いつ書いた?
あの夜か? 泥酔していた時か? それとも、膨大な決裁書類の山に紛れ込ませていたのか?
「ちょっと、それ貸して」
雫の顔色がさっと変わった。
彼女は俺の手から書類をひったくり、血眼になって内容を目で追う。
そして、信じられないものを見るような目で俺を見た。
「嘘……あんた、資産の半分を持っていかれてるじゃない!」
「な、なんだって?」
「それに、この慰謝料の額! 何これ、あんた破産する気?」
雫の声がヒステリックな金切り声に変わる。
「おい、冗談だろ」
俺は慌ててスマホを取り出し、銀行アプリを起動して口座を確認する。
残高が、激減していた。
共有財産として管理していた口座も、すでに凍結されている。
「あいつ……!」
怒りが沸騰すると同時に、背筋を凍らせるような悪寒が俺を襲った。
星奈は、本気だったんだ。
あの従順で、影の薄い女が、俺を完全に嵌めたんだ。
「ふざけないでよ!」
パァン!
乾いた破裂音が響き、俺の左頬が熱を持った。
雫が俺を平手打ちしていた。
「あんたなんて、金持ちだから付き合ってあげてたのに! 金のないバツイチ男なんて、こっちから願い下げよ!」
「雫、待て、これは何かの間違いで……」
「触らないで! 最低!」
雫は寝室に戻り、乱暴に自分の荷物をバッグに詰め込み始めた。
俺はリビングに取り残された。
広すぎる部屋。
冷たい空気。
この空間のどこにも、星奈の気配はおろか、匂いひとつ残っていなかった。
「くそっ……くそっ!」
俺はテーブルの上の指輪を壁に投げつけた。
だが、胸の奥に広がる黒い穴は、怒りでは埋まらなかった。
それは、底知れぬ恐怖だった。
俺は今、本当の意味で一人になったのだ。
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