
時が流れても、君への情は朽ちず
章 3
川上 彩乃は一瞬、呆然とした。
(どうして彼はまだ離婚届にサインしていないの?)
(まさか、後悔して離婚したくなくなったとか?)
そんな考えが頭をよぎった瞬間、自分でも馬鹿馬鹿しくなった。
藤井 盛雄が後悔するはずがない。 彼は常に、自分との関係を断ち切ることを切望していた。 今や川上 詩織の体調も日ごとに回復し、結婚適齢期を迎えている。 彼が彼女と離婚するのは、時間の問題だ。
「明日の朝九時、市役所の前で会いましょう」
そう言い残し、彩乃は盛雄の返事を待たずに電話を切った。
その夜、彼女は一睡もできなかった。 ベッドに腰掛けたまま、日が暮れるのを待ち、そして夜が明けるのを待った。 朝八時、シャワーを浴び、きちんとしたスーツに着替え、丁寧に薄化粧を施してから、市役所へと向かった。
約束の場所で一時間待ったが、盛雄は一向に現れなかった。
電話をかけても、彼は出ない。
苛立ちが募り、彩乃は直接藤井グループへ彼を訪ねることにした。 受付の制止を振り切り、盛雄のオフィスがあるフロアまでエレベーターで直行した。
会議を終えてオフィスに戻った盛雄は、革張りのソファに座る彩乃の姿を見つけた。 彼女の白い顔には、明らかに苛立ちと怒りが浮かんでいた。
「どれくらい待った?」
盛雄は彼女が来ることを予期していたかのように、落ち着いた様子でデスクの後ろに座り、机の上の書類に目を通し始めた。
「三十分」
「なら、もう少し待て」
男はそう言うと、手元の仕事に取り掛かり、彼女に二度と視線を向けなかった。
彩乃は胸の奥で何かが燃え上がるのを感じた。 怒りが爆発しそうだった。
「藤井盛雄、どういうつもりなの?」
市役所の前で一時間も待たされ、会社まで追いかけてきたというのに、まだ待てと言う。
彼の目には、自分はサイン一つ必要な書類よりも価値のない存在なのだろうか。
「一体、どうしたいの?」
彼女の声は自然と大きくなり、その声に盛雄はようやく顔を上げて彼女を一瞥した。
「待てと言ったはずだ」
「待てない!今日中にあなたと離婚手続きを済ませるわ」
この男の冷酷さと軽蔑には、もううんざりだった。
「今日は離婚できない」
彩乃は呆然と立ち尽くし、彼の言葉の意味を理解できなかった。
盛雄は再び書類に目を落とした。 手元の仕事を終えると、彼は引き出しから離婚届を取り出し、立ち上がって彩乃の前に歩み寄った。
そして、彼女の目の前で、その離婚届を粉々に引き裂いた。
「君はまだ俺の妻だ。 俺を愛しているんだろう? 『藤井奥さま』 という立場を手に入れたいんだろう? いいだろう、 その立場は君のものだ。 誰にも奪わせない」 男がその言葉を口にした時、その瞳には怒りの炎が宿っていた。
彩乃には全く理解できなかった。 自分はすでに離婚届にサインし、詩織の病状も回復に向かっている。 それなのに、なぜ盛雄は今になって心変わりしたのだろうか。
この二年間、彼は常に自分との関係を断ち切ることを切望している態度を示してきた。 今、その機会が訪れたというのに、なぜ彼は手放そうとしないのか。
「どうして?」
「離婚を切り出したのは君だ。俺じゃない」
「私はもう身を引くことに決めたの。 あなたを詩織に譲るわ。 二度とあなたにまとわりつかないと誓うから、お願い、私を解放して」 彼女は全ての自尊心を捨て、卑屈に彼に懇願した。
自分自身を解放するため、そして皆のためを思って、彼女は身を引くことを選んだのだ。
この決断を下すことは彼女にとって非常に辛いことだったが、心の準備はできていた。
「解放してだと?」盛雄は冷たい笑みを浮かべた。 「そんなに簡単な話じゃない」
「急に心変わりして、離婚しないと言い出した。 一体、何が理由なの?」
「詩織の願いだ」
「何ですって?」
「彼女は、俺たちが一緒にいることを望んでいる」
「……」
彩乃は信じられない思いと、同時に怒りを感じた。 「『彼女は俺たちが一緒にいることを望んでいる』?どういう意味?」
「俺たちが夫婦として、うまくやっていくことを望んでいる、という意味だ」
盛雄は冷笑を消し、いつもの冷淡な表情に戻った。
しかし、彼の心は穏やかではなかった。 自分は二人の女の間で好き勝手に譲り渡される物ではない。 自分の人生は、自分で決める。
彩乃は盛雄の真意を測りかね、彼が詩織との約束を守るためだけにそうしているのだと考えるしかなかった。
しかし、それでも彼女には理解できなかった。
「あなたは詩織と結婚したくないの?」
その言葉は盛雄の逆鱗に触れたようで、彼の顔色は瞬時に険しくなった。 「家に帰って荷物をまとめろ」
彼は、自分をあの家に戻れと言うのだろうか。
一ヶ月前、彼は同じように傲慢な口調で自分を家から追い出したというのに。
「藤井盛雄……」
男は怒りを必死に抑え、火を噴くような眼差しで彼女を見た。 「まだ行かないのか?」
「……」
このような盛雄を前に、彩乃は口を開いたが、一言も発することができなかった。
盛雄は背を向け、窓際に歩み寄った。 彼はタバコに火をつけ、片手をポケットに突っ込み、彼女に背を向けたまま吸い始めた。
一本吸い終えて振り返ると、彩乃の姿はすでになかった。
彼女は音もなく去り、テーブルの上には完全に冷え切ったコーヒーカップと、彼が引き裂いた離婚届だけが残されていた。
この二年間、彼は離婚の日を待ち望んでいた。
離婚届も、数ヶ月前に秘書に準備させていた。 サインを済ませて、彩乃との関係を完全に断ち切るためだ。 しかし、彼女が本当にサインをした時、彼はなぜか心が乱れ、ためらいを感じていた。
本当に、詩織が自分と彩乃に一緒にいてほしいと願ったからだけなのだろうか?
彼自身にも、その答えは分からなかった。
――
晩秋の風が、
肌寒さを運んでくる。
彩乃は一人、あてもなく街を一日中歩き回り、まるで魂が抜けた抜け殻のようだった。 気づけば、彼女は再び中央病院の前に立っていた。
ここを訪れるのが何度目になるのか、もう覚えていない。 詩織に会いたい。 しかし、その勇気がない。 病院の前で長くためらった後、行き交う人々や車を眺めながら、彼女はついに勇気を振り絞って中に入り、そのまま入院棟へと向かった。
エレベーターで詩織がいるフロアに着き、いつものように病室の様子を見に行こうとした。 ところが、病室のドアに近づいた途端、中から森田 萌美の厳しい声が聞こえてきた。 詩織に向かって言っている。 「退院したら、藤井盛雄と結婚するのよ」
詩織は憔悴しきった様子で、首を横に振った。 その声はか細かったが、口調ははっきりしていた。 「盛雄お兄ちゃんとは結婚しない。 彼はもう、お姉ちゃんの夫だから」
萌美はその言葉を聞いて、 怒りで我を忘れそうになった。 「この馬鹿な子! どうしていつも自分のことを考えないの? 彼が離婚したくないなら、 あなたが離婚を迫ればいいじゃない! 彼の心にいるのはあなたよ。 川上彩乃なんかじゃない」
「お母さん、私の体はもう良くないの。 先生も、いつ再発してもおかしくないって。 今の体じゃ、もう一度骨髄移植の手術に耐えることはできない。 残された選択肢は、化学療法だけ。でも、化学療法はあまりにも辛い。 私、耐えられる自信がない」
「先生は可能性の話をしただけで、必ず再発するとは言っていないでしょう!」
「お母さんの言いたいことは分かる。 でも、盛雄お兄ちゃんが離婚を切り出さないのに、私にどうしろっていうの?」
そこまで聞いて、彩乃の心は沈んだ。 詩織は手術後、もう大丈夫なのだとばかり思っていた。 まさか、彼女の病気には再発のリスクがあったなんて。
これこそが、詩織が盛雄を拒む本当の理由なのだろうか?
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