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泣かないで、もうあなたのものじゃない の小説カバー

泣かないで、もうあなたのものじゃない

結婚から二年が過ぎ、ようやく新しい命を授かったことを知ったその日、幸せの絶頂にいた彼女を待っていたのは夫からの非情な離婚宣告だった。予期せぬ裏切りと渦巻く陰謀によって窮地に追い込まれた彼女は、お腹の子を守るために必死の抵抗を試みるが、かつて愛した夫が助けの手を差し伸べることはなかった。深い絶望に打ちひしがれた彼女は、すべてを捨てて異国の地へと姿を消す。それから数年の月日が流れ、社会的な成功を収め、誰もが羨む地位を手にした夫。しかし、その胸の奥底には、決して忘れることのできない妻の名前が刻まれていた。後悔に苛まれ続けていた彼は、ある結婚式の場でついに彼女と再会を果たす。大勢の参列者が見守る壇上で、彼はかつての傲慢さを捨てて跪き、赤く潤んだ瞳で彼女を縋るように見つめた。「その子を連れて、一体誰のところへ行くつもりだ……」と。失われた愛と隠された真実が交錯する、切なくも激しい再会の物語。
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「んん……」

安澄は、かすかにまぶたを開けた。その視界の中に映ったのは――深い夜空のような、底知れぬ暗さを湛えた一対の瞳だった。

古杉尚行が帰ってきた。

彼の体からは、かすかにアルコールの匂いが漂っていた。その気配は、帰宅の証でもあり、彼が今ここにいるという事実を突きつけていた。

彼のキスは、いつものように唐突で強引だった。拒む余地すら与えない、圧倒的な力を孕んだその唇に、安澄は一瞬、心臓が止まったような錯覚を覚えた。

彼を押し返そうとしたその瞬間――

「動かないで」

掠れた低い声が、耳元でささやくように響いた。その声には、抗えないほどの魅力が宿っていた。

その一言で安澄の体はぴたりと硬直し、そして結局――彼に逆らうことなく、静かに身を委ねることにした。

なぜなら、今日は結婚記念日だったのだ。結婚して丸2年。こんな日に彼の気を損ねたくはなかった。いや、損ねるわけにはいかなかった。

彼女はそっと目を閉じ、彼の存在を五感で受け止めようとした。

酒の匂いをかき消すように、彼の体から漂う香水の香りが鼻をくすぐった。それは一瞬にして彼女の心の奥深くに染み込み、酔わせるように心を掴んだ。

彼女の様子に気づいたのか、尚行の瞳はさらに暗さを増し、彼の動きは徐々に大胆になっていった。

やがて安澄は意識を取り戻し、息を切らしながら懇願した。

「……優しくして。

だって私……」

「妊娠しているの」という言葉を口にしようとした、その刹那――突然、部屋の空気を切り裂くようにベルの音が響き渡り、二人の間に流れていた甘く張りつめた空気はあっけなく壊された。

尚行の目に浮かんでいた情熱は、着信表示を見るなり、まるで何事もなかったかのように掻き消えた。

彼は何も言わずに体を起こし、さっさと服を着始めた。

ついさっきまで情熱に身を任せていた男とは思えないほどの冷静さだった。

「出かけるの……?」

思わず問いかける安澄。呆然としたまま、無意識にパジャマの襟元を直した。

「うん」

尚行はそれだけを淡々と返し、特に理由や説明を述べようともしなかった。

「でも……」

「早く寝ろ」

彼女が言葉を続ける隙すら与えず、彼は額に軽く口づけた。その動作は穏やかでありながら、どこか突き放すような冷たさを感じさせた。

そうして彼は、一度も振り返ることなく部屋を出ていった。

安澄は、その背中をただ呆然と見つめるしかなかった。しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてはっと我に返る。

――きっと会社で何か急用ができたのだ。そうに違いない。

彼女は自分にそう言い聞かせた。おとなしくしていなければ、彼に嫌われてしまう。

彼女は、もう10年も尚行を愛し続けていた。そして彼と結婚できたことを、何よりも幸運なことだと信じていた。これ以上を望むなんて、贅沢すぎる――そう思っていた。

そう思い直しながら、彼女は静かに身支度を整え、ベッドへと戻った。

優しくお腹に手を当てて撫でると、自然と微笑みがこぼれた。

「赤ちゃん……パパはわざと私たちを置いていくわけじゃないのよ。怒っちゃだめよ」

その言葉を口にしたちょうどそのとき――

スマートフォンにニュース速報が表示された。【古杉グループ社長、深夜の空港で謎の美女を出迎え――】

そこに映っていたのは、VIP専用通路に立つ古杉尚行の姿だった。黒のスーツに身を包み、背筋は凛と伸び、洗練された雰囲気を漂わせていた。

何よりも衝撃だったのは、その目の表情だった。優しい――まるで恋人に向けるような眼差し。

それは、彼が一度たりとも自分に向けてくれたことのないものだった。

安澄の瞳孔が一気に縮まり、見えない刃で心臓を刺されたような鋭い痛みが走った。息をするのも苦しいほどだった。

震える指先でニュースの詳細を開きながら、彼女は最後の望みにすがるような気持ちだった。だが、そこに映っていたのは――

やはり見覚えのある、忘れられない顔だった。

上野佳奈――

尚行が初めて愛した、そして今も忘れられない女性が、ついに帰ってきたのだ。

安澄の体温は一気に下がり、心は引き裂かれるような痛みに襲われた。

声を漏らさないよう、唇をきつく噛みしめる。

彼女は忘れていない――この結婚が、どんな経緯で始まったのかを。

2年前、佳奈が尚行と結婚の話が進んでいたさなか、突然姿を消した。

ちょうどその頃、尚行は取締役会での昇進をかけた重要な時期にあり、従順で見映えのする「妻」という存在が必要だった。

そして、そのとき――誰よりも彼を愛していた彼女――家の破産でどん底に落ちた安澄は、「最も都合のよい存在」として選ばれたのだった。

結婚して2年間、彼女はずっと自分を「盗人」のように感じてきた。幸せを奪った者だと、自分を責めてきた。

しかし昨日、思いがけず妊娠していることが判明した。

あれほど厳しく避妊していたはずだったのに、先月――彼が酔って帰ってきた夜、彼は抑えきれずに彼女を求めた。

そのたった一度の「油断」が、新しい命を宿す結果となったのだ。

――どうすれば、このことを彼に伝えればいいのだろう?

彼がこの子どもを受け入れてくれるとは、到底思えない。

だって、彼が本当に愛している相手は――自分ではないのだから。

…… 呆然としながら、安澄はふと書斎のほうから声がするのに気づいた。

――尚行が、もう帰ってきていたのだろうか?

彼女はそっと上着を羽織り、足音を立てないようにして書斎へと向かった。

扉の前に立ったその瞬間、中から羽尾徹也のからかうような声が聞こえてきた。「昨晩一晩中帰らなかったのって、まさか上野と一緒だったからじゃないのか?」

その一言で、安澄の心は一気に沈み込んだ。

――やっぱり。彼は本当に、彼女と一夜を共にしていたんだ。

「うん」

尚行の返答は、それ以上でもそれ以下でもなかった。まるで感情を押し殺したような、淡々とした声だった。

「それで……安澄ちゃんはどうするつもりなんだ? 結婚してもう2年も経つんだぞ?お前、本当に彼女に何の感情もないのか?」 徹也の声には、どこか安澄を思いやる響きが込められていた。「こんなにいい女、手放したら、他の誰かに取られるぞ」

「……ないよ。ただ、少し申し訳ないとは思ってる」 尚行の声は、まるで他人事のように冷めていた。「もしお前が欲しいなら、紹介するよ。 会社に用事があるんだろ?早く行けよ」

――申し訳ない?

尚行が自分に抱いていた感情は、その程度のものだったのか?ただの「申し訳なさ」だけなのか?

ぽたり、と安澄の涙が床に落ちた。ドアノブを握っていた手も、力なく離れた。

彼は、本当に一度たりとも、自分に心を動かされたことがなかったのだ。

自分の存在など、彼にとっては「誰かに紹介できる程度」のものだった――その現実が、鋭く心に突き刺さる。

安澄の心は、完全に凍りついていた。

我に返った彼女は、庭へと逃げるように駆け出した。

しゃがみ込み、膝に顔を埋め、堪えていた涙を静かに流した。

そして――10年前の記憶が、不意に脳裏に蘇る。初めて尚行に出会った日。

彼は明るくて、ハンサムで、家柄も申し分なく、女子たちの憧れの的だった。

一方の彼女は、家の破産によってすっかり孤立し、誰からも軽んじられる存在となっていた。

そんな彼女に、尚行は手を差し伸べてくれた。

「彼女を標的にするな」そう告げた彼の姿は、まるで天使のように思えた――

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