フォローする
共有
泣かないで、もうあなたのものじゃない の小説カバー

泣かないで、もうあなたのものじゃない

結婚から二年が過ぎ、ようやく新しい命を授かったことを知ったその日、幸せの絶頂にいた彼女を待っていたのは夫からの非情な離婚宣告だった。予期せぬ裏切りと渦巻く陰謀によって窮地に追い込まれた彼女は、お腹の子を守るために必死の抵抗を試みるが、かつて愛した夫が助けの手を差し伸べることはなかった。深い絶望に打ちひしがれた彼女は、すべてを捨てて異国の地へと姿を消す。それから数年の月日が流れ、社会的な成功を収め、誰もが羨む地位を手にした夫。しかし、その胸の奥底には、決して忘れることのできない妻の名前が刻まれていた。後悔に苛まれ続けていた彼は、ある結婚式の場でついに彼女と再会を果たす。大勢の参列者が見守る壇上で、彼はかつての傲慢さを捨てて跪き、赤く潤んだ瞳で彼女を縋るように見つめた。「その子を連れて、一体誰のところへ行くつもりだ……」と。失われた愛と隠された真実が交錯する、切なくも激しい再会の物語。
共有

1

「んん……」

安澄は、かすかにまぶたを開けた。その視界の中に映ったのは――深い夜空のような、底知れぬ暗さを湛えた一対の瞳だった。

古杉尚行が帰ってきた。

彼の体からは、かすかにアルコールの匂いが漂っていた。その気配は、帰宅の証でもあり、彼が今ここにいるという事実を突きつけていた。

彼のキスは、いつものように唐突で強引だった。拒む余地すら与えない、圧倒的な力を孕んだその唇に、安澄は一瞬、心臓が止まったような錯覚を覚えた。

彼を押し返そうとしたその瞬間――

「動かないで」

掠れた低い声が、耳元でささやくように響いた。その声には、抗えないほどの魅力が宿っていた。

その一言で安澄の体はぴたりと硬直し、そして結局――彼に逆らうことなく、静かに身を委ねることにした。

なぜなら、今日は結婚記念日だったのだ。結婚して丸2年。こんな日に彼の気を損ねたくはなかった。いや、損ねるわけにはいかなかった。

彼女はそっと目を閉じ、彼の存在を五感で受け止めようとした。

酒の匂いをかき消すように、彼の体から漂う香水の香りが鼻をくすぐった。それは一瞬にして彼女の心の奥深くに染み込み、酔わせるように心を掴んだ。

彼女の様子に気づいたのか、尚行の瞳はさらに暗さを増し、彼の動きは徐々に大胆になっていった。

やがて安澄は意識を取り戻し、息を切らしながら懇願した。

「……優しくして。

だって私……」

「妊娠しているの」という言葉を口にしようとした、その刹那――突然、部屋の空気を切り裂くようにベルの音が響き渡り、二人の間に流れていた甘く張りつめた空気はあっけなく壊された。

尚行の目に浮かんでいた情熱は、着信表示を見るなり、まるで何事もなかったかのように掻き消えた。

彼は何も言わずに体を起こし、さっさと服を着始めた。

ついさっきまで情熱に身を任せていた男とは思えないほどの冷静さだった。

「出かけるの……?」

思わず問いかける安澄。呆然としたまま、無意識にパジャマの襟元を直した。

「うん」

尚行はそれだけを淡々と返し、特に理由や説明を述べようともしなかった。

「でも……」

「早く寝ろ」

彼女が言葉を続ける隙すら与えず、彼は額に軽く口づけた。その動作は穏やかでありながら、どこか突き放すような冷たさを感じさせた。

そうして彼は、一度も振り返ることなく部屋を出ていった。

安澄は、その背中をただ呆然と見つめるしかなかった。しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてはっと我に返る。

――きっと会社で何か急用ができたのだ。そうに違いない。

彼女は自分にそう言い聞かせた。おとなしくしていなければ、彼に嫌われてしまう。

彼女は、もう10年も尚行を愛し続けていた。そして彼と結婚できたことを、何よりも幸運なことだと信じていた。これ以上を望むなんて、贅沢すぎる――そう思っていた。

そう思い直しながら、彼女は静かに身支度を整え、ベッドへと戻った。

優しくお腹に手を当てて撫でると、自然と微笑みがこぼれた。

「赤ちゃん……パパはわざと私たちを置いていくわけじゃないのよ。怒っちゃだめよ」

その言葉を口にしたちょうどそのとき――

スマートフォンにニュース速報が表示された。【古杉グループ社長、深夜の空港で謎の美女を出迎え――】

そこに映っていたのは、VIP専用通路に立つ古杉尚行の姿だった。黒のスーツに身を包み、背筋は凛と伸び、洗練された雰囲気を漂わせていた。

何よりも衝撃だったのは、その目の表情だった。優しい――まるで恋人に向けるような眼差し。

それは、彼が一度たりとも自分に向けてくれたことのないものだった。

安澄の瞳孔が一気に縮まり、見えない刃で心臓を刺されたような鋭い痛みが走った。息をするのも苦しいほどだった。

震える指先でニュースの詳細を開きながら、彼女は最後の望みにすがるような気持ちだった。だが、そこに映っていたのは――

やはり見覚えのある、忘れられない顔だった。

上野佳奈――

尚行が初めて愛した、そして今も忘れられない女性が、ついに帰ってきたのだ。

安澄の体温は一気に下がり、心は引き裂かれるような痛みに襲われた。

声を漏らさないよう、唇をきつく噛みしめる。

彼女は忘れていない――この結婚が、どんな経緯で始まったのかを。

2年前、佳奈が尚行と結婚の話が進んでいたさなか、突然姿を消した。

ちょうどその頃、尚行は取締役会での昇進をかけた重要な時期にあり、従順で見映えのする「妻」という存在が必要だった。

そして、そのとき――誰よりも彼を愛していた彼女――家の破産でどん底に落ちた安澄は、「最も都合のよい存在」として選ばれたのだった。

結婚して2年間、彼女はずっと自分を「盗人」のように感じてきた。幸せを奪った者だと、自分を責めてきた。

しかし昨日、思いがけず妊娠していることが判明した。

あれほど厳しく避妊していたはずだったのに、先月――彼が酔って帰ってきた夜、彼は抑えきれずに彼女を求めた。

そのたった一度の「油断」が、新しい命を宿す結果となったのだ。

――どうすれば、このことを彼に伝えればいいのだろう?

彼がこの子どもを受け入れてくれるとは、到底思えない。

だって、彼が本当に愛している相手は――自分ではないのだから。

…… 呆然としながら、安澄はふと書斎のほうから声がするのに気づいた。

――尚行が、もう帰ってきていたのだろうか?

彼女はそっと上着を羽織り、足音を立てないようにして書斎へと向かった。

扉の前に立ったその瞬間、中から羽尾徹也のからかうような声が聞こえてきた。「昨晩一晩中帰らなかったのって、まさか上野と一緒だったからじゃないのか?」

その一言で、安澄の心は一気に沈み込んだ。

――やっぱり。彼は本当に、彼女と一夜を共にしていたんだ。

「うん」

尚行の返答は、それ以上でもそれ以下でもなかった。まるで感情を押し殺したような、淡々とした声だった。

「それで……安澄ちゃんはどうするつもりなんだ? 結婚してもう2年も経つんだぞ?お前、本当に彼女に何の感情もないのか?」 徹也の声には、どこか安澄を思いやる響きが込められていた。「こんなにいい女、手放したら、他の誰かに取られるぞ」

「……ないよ。ただ、少し申し訳ないとは思ってる」 尚行の声は、まるで他人事のように冷めていた。「もしお前が欲しいなら、紹介するよ。 会社に用事があるんだろ?早く行けよ」

――申し訳ない?

尚行が自分に抱いていた感情は、その程度のものだったのか?ただの「申し訳なさ」だけなのか?

ぽたり、と安澄の涙が床に落ちた。ドアノブを握っていた手も、力なく離れた。

彼は、本当に一度たりとも、自分に心を動かされたことがなかったのだ。

自分の存在など、彼にとっては「誰かに紹介できる程度」のものだった――その現実が、鋭く心に突き刺さる。

安澄の心は、完全に凍りついていた。

我に返った彼女は、庭へと逃げるように駆け出した。

しゃがみ込み、膝に顔を埋め、堪えていた涙を静かに流した。

そして――10年前の記憶が、不意に脳裏に蘇る。初めて尚行に出会った日。

彼は明るくて、ハンサムで、家柄も申し分なく、女子たちの憧れの的だった。

一方の彼女は、家の破産によってすっかり孤立し、誰からも軽んじられる存在となっていた。

そんな彼女に、尚行は手を差し伸べてくれた。

「彼女を標的にするな」そう告げた彼の姿は、まるで天使のように思えた――

おすすめの作品

裏切られて死にかけた私が、帰国したら億万長者に溺愛されてた の小説カバー
9.3
未婚の恋人から裏切りと暴力を受け、妊娠が発覚したその日に命を落としかけた鳳城夢乃。絶望の淵から生還した彼女は、5年の月日を経て強く気高い女性へと成長し、再び故郷の地を踏む。帰国後、偶然助けた幼い少年との出会いが彼女の運命を大きく変えることになった。その子の父親は、国内最大の財閥を率いる若き首脳だったのだ。関わりを避けようとする夢乃だったが、冷徹なはずの彼は彼女に執着し、親子揃って過剰なほどの愛情を注ぎ始める。夢乃を傷つける者には容赦のない報復を加え、理不尽な敵意を向ける女が現れれば、即座に結婚証明書を突きつけて彼女が自身の妻であることを世に知らしめる首富。身に覚えのない婚姻事実に戸惑う夢乃を余所に、彼は「そろそろ二人目の子供はどうだ」と甘く迫るのだった。凄惨な過去を乗り越えたヒロインが、圧倒的な権力を持つ億万長者に翻弄されながらも、至高の溺愛を注がれるシンデレラストーリー。
社長に婚約破棄されたので、その足で別の男とスピード婚しました の小説カバー
8.5
結城紗良は相沢蓮司を七年もの間、一途に愛し続けてきた。しかし、蓮司の心には常に「理想の女性」がおり、一年の大半を海外で彼女と過ごすばかりか、その相手はすでに彼の子を宿していた。それでも紗良は勇気を振り絞り、蓮司に結婚を申し込む。ところが、入籍当日、理想の女性が帰国したことを理由に彼は約束の場所に現れなかった。あまりの仕打ちに、長年の想いは完全に潰えてしまう。紗良は彼との連絡を断ち切り、住み慣れた街を去る決意を固めた。蓮司は彼女がいつか戻ると高を括っていたが、区役所の前で目にしたのは、見知らぬ男とスピード婚を果たす紗良の姿だった。最愛の人を失った事実に直面し、かつての傲慢な態度は消え失せ、蓮司は必死に彼女を追いかけ回すようになる。「もう一度チャンスをくれ」と涙ながらに懇願する彼に対し、別の男性の妻となった紗良が向けるのは、拒絶の言葉と冷ややかな視線だけだった。裏切りから始まる、後悔と執着のロマンス。
引き寄せられた運命: 冷徹なCEOへの恋 の小説カバー
8.8
スカーレットは、素性も知らない男性と顔を合わせることなく「フラッシュ婚」という形で夫婦となった。それから一年、彼女は一度も会ったことのない夫との離婚を決意し、平穏な独身生活を取り戻そうと動き出す。しかし、彼女の前に立ちはだかったのは、冷徹な億万長者として名高い大企業のCEO、エライアスだった。女性に無関心だと噂される彼だが、なぜか執拗にスカーレットへと接近し、彼女を翻弄していく。必死に拒絶を続けるスカーレットは、彼を諦めさせるための最終手段として、自分が既婚者であることを証明する結婚証明書を突きつけた。「私には夫がいるので、あなたとは付き合えません」と。しかし、それを見たエライアスは不敵な笑みを浮かべ、証明書の写真を指さして衝撃の事実を告げる。なんと、彼女が逃げようとしていた「見知らぬ夫」の正体こそが、目の前にいるエライアス本人だったのだ。運命に導かれるように再会した二人の関係は、この告白を機に予想もしない方向へと動き出す。神秘に包まれていた結婚生活の裏側と、冷徹なCEOが隠していた真意とは一体何なのか。
偽装ブス妻、覚醒のち離婚 の小説カバー
9.1
分厚い前髪にそばかす、無頓着な装い。誰もが目を背ける「醜い妻」として、私は若き御曹司の妻となった。周囲から「ブス好き」と冷笑され、一族の猛烈な反対を受けながらも、彼は私を狂気的なまでに溺愛し続けてくれた。その甘い言葉を信じ、容姿ではなく魂を愛してくれる唯一無二の伴侶だと確信していた三年間。しかし、その幸せは夫の書斎で見つけた衝撃的な真実によって崩れ去る。そこにあったのは、別の女性に宛てられた九十九通のラブレターと、彼女を保護するための信託書類だった。彼の愛はすべて、本命の女性を世間の毒牙から守るための「盾」として私を利用していたに過ぎなかったのだ。夫が権力を掌握し、利用価値のなくなった私は、未練もなく離婚届を突きつける。そして長年施してきた「ブスメイク」をすべて洗い流し、真実の姿を隠したまま彼の前から永遠に姿を消すことを決意した。偽りの愛に終止符を打ち、私は本来の自分を取り戻して新たな人生を歩み始める。
灰の中から立ち上がる:消された天才令嬢の帰還 の小説カバー
8.6
子宮外妊娠の破裂という命の危機に直面した際、結婚して三年の夫に助けを求めたが、彼は冷酷に突き放した。電話越しに聞こえる見知らぬ女の甘い声。夫はその女のために巨額の寄付を行う一方、手術直後の私を強引に抱き、傷口を裂くという非道な仕打ちを繰り返した。私はかつて天才研究者の道を捨て、恩返しのために鷹司家の妻として尽くしてきたが、その努力は裏切られた。夫が公衆の面前で慈しんでいたのは、私の全てを奪い続けてきた従妹の武井萌歌穂だったのだ。さらに、両親の事故死に彼女の父が関与している疑惑までもが浮上する。捧げてきた愛も忠誠も無意味な一人芝居だったと悟った私は、血に染まったシーツの上で静かに離婚届に署名した。もはや、息を潜めて生きる必要はない。かつて開発した新薬の特許による数億円の資金を解禁し、私は自分を貶めた者たちへの苛烈な反撃を開始する。奪われた尊厳と真実を取り戻すため、消されたはずの天才令嬢が灰の中から再び立ち上がる。
彼の致死量の溺愛は、私をゆっくりと殺す毒でした の小説カバー
9.7
冷戦状態が続いて半月、私は夫のスーツから一枚の中絶手術同意書を見つけてしまう。そこには彼が慈しむ幼馴染の女の名前が記されていた。用紙をそっと元の場所に戻すと、彼はバックミラー越しに私を冷たく一瞥し、友人の付き添いで取り違えただけだと吐き捨てるように言った。冷徹な実業家として知られる彼だが、彼女の言葉だけは盲目的に信じ込んでいる。これは彼女からの明白な宣戦布告なのだ。静寂に包まれた車内、彼は高級宝石店の前で車を止めると、私の髪を優しく撫でながら囁いた。「誕生日プレゼントに指輪を選ぼう。そのついでに、来月入籍するんだ」と。かつては愛だと信じていた彼の過剰なまでの甘やかしは、今や私を蝕む毒でしかない。溢れ出す涙を手の甲に落としながら、私は静かに決意を固める。彼はまだ気づいていない。私がもう、彼との未来を待つつもりなどないということを。歪んだ愛に囚われた二人の関係は、修復不可能な破滅へと向かって加速していく。