
慰謝料代わりに渡されたのは、総資産10兆円と禁欲系スパダリでした。
章 3
半日前には誘拐されたと騒いでいたくせに、こうしてすぐに帰国している。
その姿からは、事件の影すら感じられなかった。
寧音は顔を上げた。かつて彼に向けるたびに愛おしさで溢れていた瞳は、今や凪いだ海のように静まり返っている。「離婚しよう」
恒一は一瞬言葉を失い、整った顔に冷徹な色が走った。「……自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
寧音の声は冷ややかで、温度を感じさせなかった。「ええ、分かっているわ。離婚すると言ったの」
「離婚だと?」恒一は怒りに震えながらも、逆に嘲笑を浮かべ、周囲の豪華な家具や装飾品を指さして言った。「ここを出てどこへ行くつもりだ? 田舎にでも帰るのか? 桐生家の妻として、何不自由ない生活を送ってきたくせに、まだ不満があるというのか?」
寧音の心に冷たい風が吹き抜けた。
この男の目には、自分は男なしでは生きられない無価値な女としか映っていない。
だが、結婚前の彼女が国内屈指のトップジュエリーデザイナーであったことを、彼は知らないのだ。
彼の妻として生きるために、彼女は情熱を注いだキャリアを捨て、家庭という籠に閉じこもったのだ
その犠牲の滑稽さを、この空虚な結婚生活がまざまざと教えている。
「桐生夫人なんて、なりたい人がなればいいわ!」寧音は立ち上がり、スーツケースのハンドルを握り締めた。漆黒の瞳には、一切の迷いがなかった。「これが離婚届よ。サインして」
それだけ言い捨てると、彼女は振り返ることもなく出口へと歩み出した。
恒一の顔が屈辱で歪む。「寧音、今日この家を出ていったら、二度と戻れると思うなよ!」
「ええ、ご心配なく。戻るつもりなんて毛頭ないから」 寧音は唇の端をわずかに上げ、瞳を冷たく光らせた。
ちょうどその時、シルクのパジャマを纏った姑の桐生雅子が階段を降りてきた。寧音の手にあるスーツケースに目を留めると、不機嫌そうに眉を寄せる。「あら、家出でもするつもりかしら?」
「ええ、離婚するの。これであなたの念願が叶ったわね」寧音は冷ややかに笑い、声には感情の波がなかった。
桐生家に嫁いで以来、雅子からの罵倒と嘲笑は日常茶飯事だった。孤児であることを執拗に責め立て、家柄の良い雪乃と比較しては、彼女を塵芥のように扱い続けてきたのだ。
雅子は数秒間、寧音を凝視した。「お前が自分で言ったんだからね!とっくにこうなるべきだったんだよ!」
雅子は恒一に向き直り、唾を飛ばさんばかりにまくしたてた。「こんな疫病神、家に置いておくだけで運が逃げるわ。 この孤児なんか、あんたに相応しいわけがない。雪乃さんのようなお嬢さんこそ、桐生家の嫁にふさわしいのよ。さっさと離婚して、雪乃さんのために席を空けなさい!」
恒一は苦々しい表情を浮かべた。「……母さん、そのくらいにしてください」
「何が間違っているっていうの! 桐生家の敷居を跨げたこと自体、この女には身に余る光栄なのよ。それを感謝もせず、よくもまあそんな勝手な真似ができたものね!」 雅子は冷ややかに寧音を射抜いた。「寧音、これはお前が決めたことだよ。後で泣き言を言って戻ってきても、門前払いだからね!」
寧音は母子を見つめ、ただその光景の醜悪さに失笑した。
これが、彼女が三年間すべてを捧げて愛した「家族」の正体だった。
寧音は冷笑を浮かべ、背筋を凛と伸ばし、一文字ずつ重みを持って告げた。「私の人生で唯一の汚点は、判断を誤って桐生家に嫁いだことだわ。 今日この時をもって、あんたたちとの縁を切る。これから、それぞれの道を行く。二度と会うこともないでしょう!」
言い終えると、彼女は一顧だにせずスーツケースを引き、夜の闇へと踏み出した。
「寧音!待ってくれ!」
恒一は無意識に後を追おうとしたが、雅子の手に強く制止された。
「追う必要なんてないわ!あれはあの子の手だよ、わざと去るふりをしてあんたを操ろうって!」 雅子は勝ち誇ったように断言した。「見てなさい。外で生きていけないと悟れば、すぐにでも泣きついて戻ってくるわよ。 その時はたっぷりとお灸を据えてやらなきゃね」
恒一は夜の静寂に消えていく寧音の背中を見つめていた。胸の奥に、説明のつかない鋭い痛みが走る。まるで、取り返しのつかない大切なものを永遠に失ってしまったかのような、不吉な予感に苛まれた。
……
屋敷の外。
夜風は冷たく、道端のクスノキがざわめきを上げている。
アスファルトの道を歩む寧音は、外の新鮮な空気を深く吸い込むと、これほどまでに心が軽く、自由を感じた瞬間はかつてなかった。
その時、一台の高級車が遠くからゆっくりと近づいてきた。漆黒のロールスロイス・ファントム――ナンバープレートを一瞥しただけで、その持ち主の並外れた力が伝わってくるようだ。やがて車は彼女の目の前で静かに停まった。
重厚なドアが開いた。
すらりとした脚が路面に降り立つ。
現れた男は、仕立てのいい黒いスーツを纏い、凛とした佇まいを見せていた。彫りの深い顔からは、頂点に立つ者特有の鋭い覇気と高貴さが漂っている。
彼は迷いのない足取りで寧音の前に立った。紙のように青白い彼女の顔と、泥に汚れたドレスの裾を認めると、普段は果断な瞳に激しい感情の渦が巻き起こった。
「寧音」
男の声は低く、震えを隠しきれずにいた。「兄さんが丸一年、お前を探し続けていたんだ。ようやく……ようやく見つけたぞ」
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