
離婚から始まる逆転劇:世界的権威の正体は私でした
章 3
タクシーのドアが閉まる音で、凛は現実に引き戻された。
「ありがとうございました」
運転手に料金を払い、車を降りる。冷たい秋の風が、トレンチコートの襟元から入り込み、肌を刺した。
目の前には、重厚な門構えの洋館がそびえ立っている。
鷹司家の別荘。
七年間、凛を閉じ込めてきた、豪華な鳥籠。
その建物を見上げる凛の瞳は、氷のように冷え切っていた。
暗証番号を押し、重い鉄の門を開ける。広い玄関には、見慣れたピンク色のハイヒールが、無造作に脱ぎ捨てられていた。緒方彩萌が好んで履く、派手なデザインの靴。その存在が、無言で昨夜の出来事を物語っている。
家政婦の斎藤が、玄関ホールで花瓶の水を替えていた。凛の姿を認めると、面倒くさそうに会釈を一つしただけだった。「奥様」という言葉は、もう何年も前から彼女の口から聞かれなくなっていた。
凛は、使用人のあからさまな侮蔑を意に介さず、広すぎるリビングを横切り、二階の自室へと向かった。
寝室のドアを開ける。
ひやりとした、人の気配のない空気が肌を撫でた。この部屋に、鷹司暁が足を踏み入れたのは、七年間で数えるほどしかない。
凛はまっすぐベッドサイドキャビネットに向かった。テーブルランプを少しずらすと、隠された指紋認証センサーが現れる。親指を当てると、壁の一部が静かにスライドし、小さな金庫が現れた。
中から、一枚の写真を取り出す。
詩織が生後一ヶ月の時の写真。小さな、しわくちゃの顔。その頬を、凛の指が優しくなぞる。この写真だけが、この冷たい家で凛が力を得るための、唯一の源だった。
写真をコートの内ポケットに大切にしまい、今度はハンドバッグから、今朝病院から持ち出したファイルを取り出した。
七年前、鷹司家の先代当主、つまり暁の祖父にサインを強要された、離婚合意書。
その書類の一番下に記された日付。
『本合意は、婚姻届提出日より満七年をもって自動的に発効するものとする』
今日が、その満七年の日だった。
凛の唇に、自嘲の笑みが浮かぶ。
すべては、最初から決められていたことだったのだ。
その時、階下から乱暴に車のエンジンが止められる音が聞こえた。続いて、玄関のドアが叩きつけるように開けられる。
凛は、合意書を手に寝室を出た。二階の吹き抜けから、冷たい怒りの空気をまとって家に入ってくる鷹司暁の姿を見下ろす。
彼は、つけていたネクタイを苛立たしげに引き抜き、ソファに投げつけた。そして顔を上げ、階段の上に立つ凛の姿を捉える。
その目に、あからさまな嫌悪が宿った。
「なぜまだいる。出て行けと言ったはずだ」
凛は無言で階段を降り始めた。ハイヒールの踵が、磨き上げられた木の床を打ち、乾いた音を立てる。一歩一歩が、過去の屈辱を踏みしめていくようだった。
暁の前に立つ。
そして、持っていた離婚合意書を、彼の目の前のローテーブルに、叩きつけるように置いた。
暁は、その表紙を一瞥し、眉をひそめた。また何か、新しい芝居が始まったのかと、その目が語っている。
「七年の期限が来たわ」
凛の声には、何の感情もこもっていなかった。
「最近、役所に離婚届を出しに行く。それで、すべて終わり」
暁は、一瞬、虚を突かれたように固まった。だが、すぐに彼の唇が、冷たい嘲笑の形に歪んだ。
「俺から離れて、お前のような女が生きていけるとでも思っているのか?」
その言葉に、凛は背筋を伸ばした。彼の目を、まっすぐに見返す。
「『鷹司の奥様』。その称号は、私にとって吐き気がするだけよ」
その一言が、暁の逆鱗に触れた。
彼は猛然と立ち上がり、その大きな手が、凛の顎を鷲掴みにした。骨が軋むほどの、強い力。
「俺の忍耐力を試すな」
彼の目が、危険な光を放っている。
「彩萌は今、安静が必要なんだ。お前のくだらない茶番に付き合っている暇はない」
顎に走る激痛に、凛は唇を固く結んだ。娘の存在だけは、この男に知られてはならない。その一心で、痛みに耐える。
凛の、決して屈しない瞳を見て、暁は得体の知れない苛立ちを感じた。舌打ちを一つし、まるで汚いものでも払いのけるかのように、凛の顎から手を離した。
ポケットからハンカチを取り出し、凛に触れた指先を、念入りに拭っている。
その仕草が、凛の心に残っていた最後の一片の未練を、完全に灰に変えた。
ソファによろめいた凛は、立ち上がり、テーブルの上の合意書には目もくれず、二階へと戻っていった。
ベッドの下から、スーツケースを引きずり出す。
中に入れるのは、数枚の着替えと、数冊の医学専門書だけ。この家に、凛の私物と呼べるものは、ほとんどなかった。
ドレッサーの前に立ち、左手の薬指にはめられた、冷たい感触の指輪を外す。
七カラットの、完璧なダイヤモンド。
それを、何の躊躇もなく、ガラスの天板の上に放り投げた。
カシャン、という硬質で、澄んだ音が部屋に響く。
その音は、凛と鷹司家の関係が、完全に断ち切られたことを告げる、終わりの合図だった。
スーツケースのジッパーを閉め、それを引きずって、寝室を出る。
誰もいないリビングを横切り、玄関のドアを開ける。
深まる秋の、冷たい夜気の中に、凛は一人、足を踏み出した。
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