
三年間の冷酷な結婚生活:今更夫が後悔してももう遅い
章 3
翌日の午後、加藤凛は予告通り、五十嵐家を訪れた。
シャープなラインのパンツスーツに身を包んだ彼女は、まるで戦場に赴く弁護士そのものだった。
「これよ」
応接室で、凛は分厚い牛革の封筒を優花に手渡した。中には、離婚協議書と、いくつかの不動産の譲渡契約書が巧妙に混ぜ込まれている。
「ありがとう、凛」
優花が封筒を受け取り、中身を確認しようとした、その時だった。
二階の廊下から、びりびり、と紙を引き裂くような、甲高い音が響き渡った。
優花の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
彼女は封筒をテーブルに置くと、弾かれたように応接室を飛び出し、階段を駆け上がった。
廊下の突き当たり。そこに、拓海がいた。
そして、その小さな手の中で、無残にも引き裂かれていたのは。
「……あ……」
優花の両親の、たった一枚だけ残された、古い写真だった。
幼い頃に実の両親を亡くし、鷹司家へ養女に出された優花にとって、それは過去と自分を繋ぐ、かけがえのない唯一の品だった。永井という姓は、養子に出される前の、彼女の血筋を示す、最後の名残だ。
色褪せた写真の中で、優しく微笑む父と母。その顔が、無慈悲に引き裂かれ、床に散らばっている。
ぶつり、と、優花の頭の中で何かが切れる音がした。
視界が、赤く染まる。
彼女は数歩で拓海との距離を詰めると、その小さな身体の襟首を、鷲掴みにした。
「……ッ!」
拓海を、床から数センチ、宙に浮かせ、そのまま壁に押し付ける。
「きゃああああ!」
拓海の甲高い悲鳴が、屋敷中に響き渡った。
「何をしている!」
書斎から飛び出してきた健斗が、その光景を見て、怒りの形相で叫んだ。彼は、優花と拓海の間に割って入ると、力任せに優花を突き飛ばした。
「ぐっ……!」
優花の背中が、硬い壁に強かに打ち付けられる。骨が砕けるような激痛が走り、一瞬、呼吸ができなくなった。
健斗は、恐怖で泣きじゃくる拓海を背後にかばい、鬼のような形相で優花を睨みつけた。
「父親を亡くしたばかりの子供に、手を上げるだと?お前は、鬼か!」
優花は、壁に手をつき、ゆっくりと身体を起こした。背中の痛みよりも、心の痛みのほうが、ずっと激しい。
彼女は、健斗を、冷え切った目で見つめ返した。
「……私の両親の遺影を、あなたの甥が破り捨てました」
「……なんだと?」
「弁償していただきます」
その氷のような瞳に、健斗は一瞬、たじろいだ。だが、彼はすぐに虚勢を張る。
「子供のやったことだ!大げさに騒ぐな!」
「弁償して、いただきます」
優花は、一歩も引かなかった。
健斗は、この面倒な事態を早く収束させたいのか、苛立ったように舌打ちをした。
「……わかった。何が望みだ。金か?土地か?」
その時だった。
「きゃっ……!」
階下から、彩音のか細い悲鳴が聞こえた。
「健斗さん……!めまいが……!」
その声を聞いた瞬間、健斗の意識は、完全に階下の彩音へと奪われた。
「彩音さん!」
彼は焦燥に駆られたように、その場で足踏みをする。早く行きたい。でも、目の前の優花が邪魔だ。
その一瞬の隙を、優花は見逃さなかった。
彼女は、先ほど凛から受け取った封筒を手に取ると、健斗の目の前に突き出した。
「この家の近くにある、別荘。あれを、慰謝料として譲渡していただきます。ここに、サインを」
優花は、離婚協議書が挟まれた書類の束を、素早くめくり、最後の署名欄だけが見えるようにして、健斗に差し出した。
「……ちっ、わかった!」
健斗の頭の中は、もはや彩音のことでいっぱいだった。彼は、優花が差し出した書類の内容など、一瞥もせずに、ペンをひったくった。
そして、龍が舞うような、乱暴な筆致で、そこに自分の名前を書き殴った。
「これでいいだろう!」
優花は、健斗がペンを置いた瞬間、まるで獲物を奪い取るかのように、素早くその書類を引き戻した。
その時、健斗の足元に隠れていた拓海が、憎々しげに優花のスネを思い切り蹴りつけた。
鈍い痛みが走る。だが、優花は表情一つ変えなかった。ただ、着物の裾についた埃を、無表情に手で払っただけだ。まるで、虫にでも触られたかのように。
健斗はサイン済みの書類を抱きしめる優花を一瞥すると、すぐに踵を返し、彩音の元へと階段を駆け下りていった。
優花はその背中を冷たく見送った。
彩音への盲目的な執着。それこそが、彼の最大の弱点。
優花は、その弱点を、正確に突いたのだ。
彼女はサイン済みの書類を胸に抱きしめ、自分の部屋へと戻ると、すぐに鍵をかけた。そして、その致命的な離婚協議書を、金庫の奥深くへとしまい込んだ。
この瞬間から、彼女はもう、被害者ではない。
自らの手で運命を切り開く、狩人だ。
優花は再び階下へと降りた。リビングのソファでは、健斗が心配そうに彩音の額に手を当てている。
その横を通り過ぎ、まだ得意げな顔をしている拓海の前に立った。
そして、にっこりと微笑みかけ、優しい声で囁いた。
「今度は気をつけてね、拓海くん」
拓海はその笑顔を見て、一瞬で顔を強張らせた。
健斗は、彩音に夢中で、優花の言葉には全く気づいていない。その光景が、ひどく滑稽に見えた。
凛が、心配そうに優花のそばに寄り、その冷たい手を握りしめた。
「優花……」
「大丈夫」
優花の瞳が、わずかに潤む。だが、彼女は決して涙をこぼさなかった。
「あの写真の代償よ。まずは、利息だけ、払ってもらったわ」
凛は力強く頷いた。
窓の外の空が、どんよりと曇り始める。優花は凛を玄関まで見送ると、振り返って、この豪華絢爛な牢獄を見据えた。
その瞳には、復讐の炎が、静かに燃え上がっていた。
ソファから、彩音が虚ろな、しかし挑発的な視線を向けてくる。優花は、完璧な淑女の微笑みを返し、優雅に一人掛けのソファに腰を下ろした。
彩音は、試すように、近くにあった高価なボーンチャイナのティーカップを、わざとらしく床に落とした。
ガチャン、と耳障りな音が響く。
優花は眉一つ動かさなかった。ただ、静かに、近くにいた使用人に命じる。
「……ゴミが落ちていますわ。片付けてちょうだい」
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