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契約の花嫁:ソーンの贖罪 の小説カバー

契約の花嫁:ソーンの贖罪

無機質な病院のベッドで、私は失った我が子を想い絶望の淵にいた。周囲は不慮の事故だと決めつけるが、私を突き飛ばした夫・健司の冷徹な眼差しを忘れることはできない。見舞いに現れた彼は、花束の代わりに離婚届と秘密保持契約書を突きつけた。かつての親友である愛人の妊娠を告げ、邪魔者となった私を精神疾患に仕立て上げて社会的に抹殺しようと画策していたのだ。愛した男が怪物へと変貌し、人生を買い叩かれる屈辱に震えるなか、亡き両親の知人である弁護士が私のもとを訪れる。彼女から託された古びた鍵は、一族の血脈に眠る古い約束を呼び覚ますものだった。それは、夫が最も恐れる冷酷非道な億万長者、九条院玲との間に交わされた絶対的な婚約契約。過去から届いたこの「逃げ道」は、私を地獄から救い出す唯一の希望となるのか。裏切りに塗れた結婚生活を清算し、謎に包まれた有力者との新たな契約に身を投じる波乱のロマンス。奪われた尊厳を取り戻すための、孤独な女の逆襲が今幕を開ける。
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その脱出は、まるで熱に浮かされた夢のようだった。

健司が訪れた後、私の目に浮かんだ恐怖を見た、佐藤さんという名の心優しい夜勤の看護師が助けてくれた。

彼女は、私には大きすぎる、誰かが脱ぎ捨てたスクラブを見つけてきてくれ、私が通用口から東京の夜明け前の冷気の中に滑り込むのを、見て見ぬふりをしてくれた。

空気は鋭く湿っていて、雨と排気ガスの味がした。

病院の再利用された無菌の空気の後では、それは私の体に衝撃を与えた。

遠くで鳴り響くサイレンの音、濡れたアスファルトを滑るタイヤの音、そして狂ったように打つ自分の心臓の鼓動。全ての音が拡大されて聞こえる。

私はポケットの中の真鍮の鍵を握りしめた。その硬い縁が、痛みを伴いながらも、確かにそこにあることを教えてくれる。

それが、私に残された唯一の現実だった。

帝都中央銀行は、花崗岩と大理石でできた古く、威圧的な建物で、古くからの金と秘密の神殿のようだった。

手がひどく震えて、アクセス票に自分の名前をほとんど書けなかった。

退屈そうな目をした、高橋という名の若い行員は、気づいていないようだった。

彼に導かれて金庫室に入ると、巨大な円形の扉が重く、最終的な音を立てて背後で閉まるにつれて、空気は冷たく、静かになった。

貸金庫は細長い形をしていた。

中には、色褪せた黒いベルベットの上に、一通の、厚い羊皮紙の封筒が置かれていた。

濃い赤色の蝋で封印されている。

倉田家の家紋。両親の葬儀以来、見ていなかった家紋だった。

恐怖とアドレナリンが入り混じり、不器用になった指で、封蝋を破った。

中の文書は重く、紙は古びてパリパリしていた。

書体は古風で、解読が難しい形式的な法律用語で書かれていた。

しかし、冷たく、現代的なフォントでタイプされた名前は、見間違えようがなかった。

私の名前、倉田詩織。

そして、もう一つの名前。

その名前は、私の息を呑ませた。

九条院玲。

(何?)

その名前が、頭の中で響き渡った。

九条院玲。

悪名高いほど冷酷で、桁外れに裕福で、そして病的なほど世間から姿を隠している、九条院グループのCEO。

彼は東京のエリート界における幻影であり、健司が必死に相続しようとしている橘ホールディングスの、直接的で熾烈なライバルだった。

彼は伝説であり、鮫であり、亡霊だった。

そして、今、私の震える手の中にある、鉄の掟にも等しい、法的に拘束力のある文書によれば、彼は私の婚約者だった。

それは、数十年前に私たちの祖父たちが交わした、あらかじめ取り決められた婚約契約だった。

それぞれの初孫同士を結びつけるという約束。

それは、二つの強力な一族を統合するための、王朝的な同盟だった。

インクと法律で封印され、時とともに忘れ去られていた約束が、今、ここに。

(これが葛城先生の言っていたことだわ。健司が夢にも思わないほどの力を持つ契約書)

その大胆さ、その中世的な奇妙さに、私は圧倒された。

両親は私に命綱を遺してくれた。しかし、それは巨大な海獣に繋がっていた。

私は契約書を握りしめ、混乱した頭で銀行からよろめき出た。

灰色の朝の光が、きつく、ざらざらと感じられる。

街は目覚め始め、通りは普通の生活、普通の問題を抱えた人々で溢れかえっていた。

彼らは怪物から逃げているわけでも、神話の人物との婚約契約書を握りしめているわけでもない。

その時、彼らを見た。

通りの向こう側、黒いセダンのそばに立つ、黒いスーツの男が二人。

彼らは目立たないようにしようとしていたが、その視線は鋭すぎ、その静止はあまりに捕食者のようだった。

一人が電話を耳に当て、その目はまっすぐに私を捉えていた。

健司の手下だ。

彼は待っていなかった。すでに私を狩り始めていたのだ。

冷たく鋭いパニックが、私を襲った。

脳が命令を出す前に、足が動き出していた。

私は走った。

朝の雑踏に飛び込み、病院支給のスニーカーが濡れた歩道を叩く。

人々の怒鳴り声を無視して、彼らを押し分けた。

スクラブは粗末な変装で、私が場違いな人間であること、逃げている人間であることを示していた。

(考えろ、詩織、考えろ!どこへ行けばいい?)

沙耶のアパートは、彼らが真っ先に探す場所だろう。

ホテルには身分証明書とクレジットカードが必要だが、どちらも病院の私のハンドバッグの中だ。

私は、何の手段も持たない幽霊だった。

追跡は、店のショーウィンドウと人々の顔のぼやけた連続だった。

ちらりと肩越しに振り返る。

彼らは近づいていた。恐ろしいほど、運動能力に優れた動きで。

彼らは追いついてきている。

肺が焼けるように痛い。

まだ弱く、回復途中の体が、抗議の悲鳴を上げていた。

絶望が、パニックの縁を侵食し始める。

彼らに捕まる。

引きずり戻され、健司は脅迫を実行するだろう。

鍵のかかった部屋、永遠に沈黙させられるイメージが、私を前に進ませた。

その時、それが見えた。

他のビル群の上に、黒曜石の刃のようにそびえ立つ、権力と野心の記念碑。

九条院グループの本社ビル。

それは狂気の沙汰だった。

絶望的な、最後の賭け。

しかし、それは東京中で、健司が容易に手を出せない唯一の場所だった。

それは、ドラゴンの巣。

そして私は、ドラゴン自身からの招待状を手にしていた。

最後の力を振り絞り、私は広々とした、風の吹き抜ける広場を横切り、光り輝くガラスと鋼鉄のエントランスに向かって疾走した。

背後の二人の男が叫び、全力疾走に切り替えた。

私は回転ドアを突き破り、商業の聖堂のように広大で豪華なロビーに飛び込んだ。

床は磨かれた黒い大理石で、吹き抜けの三階建ての天井を映し出していた。

空間の中央には、ブロンズと鋼鉄の巨大な抽象彫刻が鎮座している。

空気は金の匂いがした。清潔で、無菌で、ほのかに心地よい、おそらくは白茶のような香りがした。

完璧なスーツを着た男女が、静かで効率的な目的を持って動き、その声はひそやかだった。

私の、薄青いスクラブを着たみすぼらしい姿、乱れた髪、パニックに陥った呼吸――その全てが、この静かで完璧な世界を、きしむ音を立てて停止させた。

厳しい顔つきの、山のような体格の警備員が、すぐに私を止めようと動いた。

「奥さん、ここに入ってはいけません」

「九条院玲さんに会わせてほしいんです」

私は息を切らしながら、かすれた声で言った。

彼は短く、ユーモアのない笑い声を上げた。

「そうでしょうね。あなたも、他の皆さんも。出て行ってください。今すぐに」

彼が私の腕を掴もうとした。

私を追っていた男たちが、今やドアのところにいたが、別の警備員に一時的に阻まれている。

時間がなかった。

私の絶望は、生の、原始的な叫びとなって爆発した。

「九条院玲!」

その声は、洞窟のような空間に響き渡った。

全ての頭が振り向いた。全ての会話が止まった。

その後に続いた沈黙は、絶対的で、衝撃に満ちていた。

警備主任の顔が硬くなった。

「もういい。出ていけ」

「いや!」

私は叫び、手の中の文書を必死で探った。

私はそれを掲げた。厚い羊皮紙が震えている。

「契約書があるんです!彼との…婚約契約書が!」

私の主張の、そして私の姿の、その馬鹿馬鹿しさが、空中に漂った。

周りの人々の顔に、同情と不信が見て取れた。

彼らは私が狂っていると思った。

たぶん、私は狂っていたのかもしれない。

そして、変化が起きた。

ロビーに、集団的な息を呑む音がさざ波のように広がった。

アトリウムの遠端にある、壮大で浮遊するような階段の近くに立っていた人々が、モーゼの前の紅海のように分かれた。

私は彼らの視線を追って、上を向いた。

階段の頂上に、一人の人物が立っていた。

背後の巨大な窓を背に、シルエットになっている。

彼は背が高く、第二の皮膚のように完璧に裁断されたスーツを着ていた。

この距離からでも、彼から放たれる力は palpable だった。

それは静けさであり、一言も発することなく空間全体を支配する、内に秘めた強さだった。

彼は階段を下り始めた。その動きは流れるようで、計算されていた。

彼が近づくにつれて、その顔立ちがはっきりしてきた。

鋭く、貴族的な頬骨、強い顎、そして黒い髪。

しかし、私を虜にしたのは、彼の目だった。

それは驚くほど、氷のような灰色で、アトリウムの向こう側から、私の目に釘付けになっていた。

怒ってもいないし、驚いてもいない。

それは、評価し、分析し、そして全く、恐ろしいほどに冷たい目だった。

九条院玲。

神話の男。

私の未来をその手に握る男。

そして、その氷のような眼差しには、一片の既視感もなかった。

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