
契約の花嫁:ソーンの贖罪
章 2
その脱出は、まるで熱に浮かされた夢のようだった。
健司が訪れた後、私の目に浮かんだ恐怖を見た、佐藤さんという名の心優しい夜勤の看護師が助けてくれた。
彼女は、私には大きすぎる、誰かが脱ぎ捨てたスクラブを見つけてきてくれ、私が通用口から東京の夜明け前の冷気の中に滑り込むのを、見て見ぬふりをしてくれた。
空気は鋭く湿っていて、雨と排気ガスの味がした。
病院の再利用された無菌の空気の後では、それは私の体に衝撃を与えた。
遠くで鳴り響くサイレンの音、濡れたアスファルトを滑るタイヤの音、そして狂ったように打つ自分の心臓の鼓動。全ての音が拡大されて聞こえる。
私はポケットの中の真鍮の鍵を握りしめた。その硬い縁が、痛みを伴いながらも、確かにそこにあることを教えてくれる。
それが、私に残された唯一の現実だった。
帝都中央銀行は、花崗岩と大理石でできた古く、威圧的な建物で、古くからの金と秘密の神殿のようだった。
手がひどく震えて、アクセス票に自分の名前をほとんど書けなかった。
退屈そうな目をした、高橋という名の若い行員は、気づいていないようだった。
彼に導かれて金庫室に入ると、巨大な円形の扉が重く、最終的な音を立てて背後で閉まるにつれて、空気は冷たく、静かになった。
貸金庫は細長い形をしていた。
中には、色褪せた黒いベルベットの上に、一通の、厚い羊皮紙の封筒が置かれていた。
濃い赤色の蝋で封印されている。
倉田家の家紋。両親の葬儀以来、見ていなかった家紋だった。
恐怖とアドレナリンが入り混じり、不器用になった指で、封蝋を破った。
中の文書は重く、紙は古びてパリパリしていた。
書体は古風で、解読が難しい形式的な法律用語で書かれていた。
しかし、冷たく、現代的なフォントでタイプされた名前は、見間違えようがなかった。
私の名前、倉田詩織。
そして、もう一つの名前。
その名前は、私の息を呑ませた。
九条院玲。
(何?)
その名前が、頭の中で響き渡った。
九条院玲。
悪名高いほど冷酷で、桁外れに裕福で、そして病的なほど世間から姿を隠している、九条院グループのCEO。
彼は東京のエリート界における幻影であり、健司が必死に相続しようとしている橘ホールディングスの、直接的で熾烈なライバルだった。
彼は伝説であり、鮫であり、亡霊だった。
そして、今、私の震える手の中にある、鉄の掟にも等しい、法的に拘束力のある文書によれば、彼は私の婚約者だった。
それは、数十年前に私たちの祖父たちが交わした、あらかじめ取り決められた婚約契約だった。
それぞれの初孫同士を結びつけるという約束。
それは、二つの強力な一族を統合するための、王朝的な同盟だった。
インクと法律で封印され、時とともに忘れ去られていた約束が、今、ここに。
(これが葛城先生の言っていたことだわ。健司が夢にも思わないほどの力を持つ契約書)
その大胆さ、その中世的な奇妙さに、私は圧倒された。
両親は私に命綱を遺してくれた。しかし、それは巨大な海獣に繋がっていた。
私は契約書を握りしめ、混乱した頭で銀行からよろめき出た。
灰色の朝の光が、きつく、ざらざらと感じられる。
街は目覚め始め、通りは普通の生活、普通の問題を抱えた人々で溢れかえっていた。
彼らは怪物から逃げているわけでも、神話の人物との婚約契約書を握りしめているわけでもない。
その時、彼らを見た。
通りの向こう側、黒いセダンのそばに立つ、黒いスーツの男が二人。
彼らは目立たないようにしようとしていたが、その視線は鋭すぎ、その静止はあまりに捕食者のようだった。
一人が電話を耳に当て、その目はまっすぐに私を捉えていた。
健司の手下だ。
彼は待っていなかった。すでに私を狩り始めていたのだ。
冷たく鋭いパニックが、私を襲った。
脳が命令を出す前に、足が動き出していた。
私は走った。
朝の雑踏に飛び込み、病院支給のスニーカーが濡れた歩道を叩く。
人々の怒鳴り声を無視して、彼らを押し分けた。
スクラブは粗末な変装で、私が場違いな人間であること、逃げている人間であることを示していた。
(考えろ、詩織、考えろ!どこへ行けばいい?)
沙耶のアパートは、彼らが真っ先に探す場所だろう。
ホテルには身分証明書とクレジットカードが必要だが、どちらも病院の私のハンドバッグの中だ。
私は、何の手段も持たない幽霊だった。
追跡は、店のショーウィンドウと人々の顔のぼやけた連続だった。
ちらりと肩越しに振り返る。
彼らは近づいていた。恐ろしいほど、運動能力に優れた動きで。
彼らは追いついてきている。
肺が焼けるように痛い。
まだ弱く、回復途中の体が、抗議の悲鳴を上げていた。
絶望が、パニックの縁を侵食し始める。
彼らに捕まる。
引きずり戻され、健司は脅迫を実行するだろう。
鍵のかかった部屋、永遠に沈黙させられるイメージが、私を前に進ませた。
その時、それが見えた。
他のビル群の上に、黒曜石の刃のようにそびえ立つ、権力と野心の記念碑。
九条院グループの本社ビル。
それは狂気の沙汰だった。
絶望的な、最後の賭け。
しかし、それは東京中で、健司が容易に手を出せない唯一の場所だった。
それは、ドラゴンの巣。
そして私は、ドラゴン自身からの招待状を手にしていた。
最後の力を振り絞り、私は広々とした、風の吹き抜ける広場を横切り、光り輝くガラスと鋼鉄のエントランスに向かって疾走した。
背後の二人の男が叫び、全力疾走に切り替えた。
私は回転ドアを突き破り、商業の聖堂のように広大で豪華なロビーに飛び込んだ。
床は磨かれた黒い大理石で、吹き抜けの三階建ての天井を映し出していた。
空間の中央には、ブロンズと鋼鉄の巨大な抽象彫刻が鎮座している。
空気は金の匂いがした。清潔で、無菌で、ほのかに心地よい、おそらくは白茶のような香りがした。
完璧なスーツを着た男女が、静かで効率的な目的を持って動き、その声はひそやかだった。
私の、薄青いスクラブを着たみすぼらしい姿、乱れた髪、パニックに陥った呼吸――その全てが、この静かで完璧な世界を、きしむ音を立てて停止させた。
厳しい顔つきの、山のような体格の警備員が、すぐに私を止めようと動いた。
「奥さん、ここに入ってはいけません」
「九条院玲さんに会わせてほしいんです」
私は息を切らしながら、かすれた声で言った。
彼は短く、ユーモアのない笑い声を上げた。
「そうでしょうね。あなたも、他の皆さんも。出て行ってください。今すぐに」
彼が私の腕を掴もうとした。
私を追っていた男たちが、今やドアのところにいたが、別の警備員に一時的に阻まれている。
時間がなかった。
私の絶望は、生の、原始的な叫びとなって爆発した。
「九条院玲!」
その声は、洞窟のような空間に響き渡った。
全ての頭が振り向いた。全ての会話が止まった。
その後に続いた沈黙は、絶対的で、衝撃に満ちていた。
警備主任の顔が硬くなった。
「もういい。出ていけ」
「いや!」
私は叫び、手の中の文書を必死で探った。
私はそれを掲げた。厚い羊皮紙が震えている。
「契約書があるんです!彼との…婚約契約書が!」
私の主張の、そして私の姿の、その馬鹿馬鹿しさが、空中に漂った。
周りの人々の顔に、同情と不信が見て取れた。
彼らは私が狂っていると思った。
たぶん、私は狂っていたのかもしれない。
そして、変化が起きた。
ロビーに、集団的な息を呑む音がさざ波のように広がった。
アトリウムの遠端にある、壮大で浮遊するような階段の近くに立っていた人々が、モーゼの前の紅海のように分かれた。
私は彼らの視線を追って、上を向いた。
階段の頂上に、一人の人物が立っていた。
背後の巨大な窓を背に、シルエットになっている。
彼は背が高く、第二の皮膚のように完璧に裁断されたスーツを着ていた。
この距離からでも、彼から放たれる力は palpable だった。
それは静けさであり、一言も発することなく空間全体を支配する、内に秘めた強さだった。
彼は階段を下り始めた。その動きは流れるようで、計算されていた。
彼が近づくにつれて、その顔立ちがはっきりしてきた。
鋭く、貴族的な頬骨、強い顎、そして黒い髪。
しかし、私を虜にしたのは、彼の目だった。
それは驚くほど、氷のような灰色で、アトリウムの向こう側から、私の目に釘付けになっていた。
怒ってもいないし、驚いてもいない。
それは、評価し、分析し、そして全く、恐ろしいほどに冷たい目だった。
九条院玲。
神話の男。
私の未来をその手に握る男。
そして、その氷のような眼差しには、一片の既視感もなかった。
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