
囚人番号309番の私を、世界的富豪が買い占めた夜。
章 2
長谷和夫のシャツのボタンは掛け違えられ、手は無意識に秦野聡子の腰に置かれていたが、私を見ると慌ててその手を引っ込めた。
聡子は彼の後ろにいて、私が一番気に入っていたシルクのガウンを着ていた。
オフホワイトの生地が彼女の体を包み、襟元には生々しいキスマークがついていた。濡れた髪を肩に垂らし、玄関と同じ甘ったるい香水の匂いを漂わせている。
その親密な様子は、毒針のように私の心臓に深く突き刺さった。
時間はまるでこの瞬間に凍りついたようで、空気は氷が張ったように冷たい。
私は2人を睨みつけた。
和夫が1歩前に出た。その声に再会の喜びは微塵もなく、隠しきれない打算だけが滲んでいた。「杏奈?どうして……予定より早く出てこられたんだ?」
私は答えず、彼を通り越して聡子の顔に視線を向けた。
聡子は軽く笑い、隠そうともしない嘲笑を浮かべて言った。「刑務所の飯は案外美味しかったみたいね、杏奈。想像してたよりずっと血色がいいじゃない」
私は深呼吸をして、喉の奥の嗚咽を飲み込んだ。1歩ずつ部屋の中へ進む。その1歩1歩が、砕けたガラスの破片を踏みつけるような感覚だった。
私の声はひどく掠れていて、自分でも聞いたことがないほどだった。「莉々はどこ?」
和夫と聡子が視線を交わした。その視線に込められた暗黙の了解は、裏切りそのものよりも私の心を冷え切らせた。
それは言葉に出さない悪意であり、命をゴミのように見なす冷酷さだった。
和夫は目を伏せ、下手くそな演技でため息をつき、悲しそうなふりをした。「莉々は……事故だったんだ。 2ヶ月前、風邪をこじらせて急性肺炎になって、助からなかった。 面会に行った時に伝えようと思ってたんだけど……」
ーー嘘だ。
1つ1つの言葉が、計算し尽くされた嘘だ。
刑務所に入ってから、和夫が1度でも面会に来たことがあったか?
刑務所に入る前、私は莉々に精密な健康診断を受けさせたばかりだった。医者は健康そのもので、ちょっとした風邪すら滅多に引かないと言っていた。
それに、莉々はペニシリンにアレルギーがある。私はわざわざ家に特効薬を準備し、和夫に何度も念を押していた。莉々が病気になっても、絶対に薬を勝手に使ってはいけないと。
何よりも、娘が亡くなったのに、どうして私には何の知らせもなかったのか?
どうして、刑務所にいるからといって、最後の別れすらさせてくれなかったのか?
私は冷たく笑い、しゃがみ込んで、ソファーの下からちょうどパズルボックスを見つけたふりをした。 「そう」
ゆっくりと手を挙げ、パズルボックスの欠けた角を2人に向けた。「莉々のパズルボックスが、どうしてソファーの下にあるの?」
和夫と聡子の顔色が瞬時に変わった。
私は和夫の目をじっと見つめ、1字1句はっきりと言った。「あの子はリビングでパズルボックスで遊んだりしない。 寝室で、私と一緒に遊ぶ時だけ。ねえ、長谷和夫、教えてよ。一体何があったの? あんたたちが寝室からリビングに引きずり出して、この子を殴ったの?」
和夫の喉仏が動き、視線を泳がせ、私と目を合わせようとしなかった。
聡子はそれを見ると、慌てて1歩前に出た。私の手から箱を奪い取ろうと手を伸ばし、わざとらしい気遣いを顔に張り付けた。
「杏奈、出所したばかりで情緒が不安定なのよ。変なこと考えないで。莉々のことは私たちもすごく悲しいわ。まずは落ち着いて、ゆっくり話しましょう」
私は勢いよく後ろに下がり、彼女の手を避けた。
彼女の指先は冷たく、まるで毒蛇の舌のようで、ひどく吐き気がした。
記憶が怒涛のように押し寄せ、3年前のあの雨の夜の光景が鮮明に目の前に浮かび上がった。
酒臭い和夫が家のドアを押し開けて入ってきた。顔面は蒼白で、全身を震わせながら私に言った。「杏奈、飲酒運転で人を轢いちゃった。相手は死んだ。殺人罪で一生刑務所から出られない」
私は彼の無力な姿を見て、罪を犯したのが彼ではなく私だったらよかったのにと本気で思った。
自首するように言ったが、彼は泣きながら膝をつき、私の脚にすがりついて言った。「君しか俺を救えない。君は看護師だから、あの時運転していたのは君で、怪我人を助けようとしたけど間に合わなかったと言えばいい。ただの過失になれば、刑期はずっと短くなる。 俺が莉々の面倒をちゃんと見るから、必ず君が出てくるのを待ってるから」
私は信じてしまった。
この男を10年間愛し続けた。彼のために、イギリスにいる両親の反対を押し切り、異国の地へ嫁いだ。
私たちの愛はすべてを乗り越えられると信じていた。彼が約束通り莉々の面倒をしっかり見て、私の帰りを待っていてくれると信じていた。
私は弁護士の助言を無視し、法廷ですべての起訴事実を認めた。
裁判官に「どうして車を止めて通報しなかったのか」と聞かれた時、「パニックになった」と答えた。
判決が下された瞬間、傍聴席にいる和夫を見た。彼は目を赤くして、「待ってる」と口パクで伝えてきた。
和夫の腕の中で莉々が「ママ」と泣き叫んでいた。あの胸をえぐるような泣き声は、刑務所での3年間、夜中に目を覚ますたびに蘇る最も鮮明な記憶だった。
それに、あの保険。
事故が起きる数日前、和夫は保険の契約書を家に持ち帰り、どうしても私にサインさせようとした。
彼は言った。「万が一君に何かあった時のための保障だ」
私は家計に余計な負担をかけたくなくて躊躇した。しかし、彼は私の顔を両手で包み、優しくキスをして言った。「念のためだよ、ハニー。保険料は俺が全額払えるから、サインしてくれ。俺を安心させてほしいんだ」
私はまたしても彼を信じてしまった。
今思えば、あれは保障なんかじゃなく、私のために用意された死の罠だった。
受取人は彼と莉々。今、莉々が死んだことで、受取人は彼1人になった。
あいつが私を急いで殺そうとしたのは、あの巨額の保険金を手に入れるためだったんだ!
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