
七年間尽くした秘書ですが、最強の御曹司と契約結婚します
章 2
社長室の重い扉を閉めた瞬間、凛は壁に背中を預け、かろうじて堪えていた息を深く吐き出した。震える足で自分のデスクに戻り、椅子に崩れるように座る。
目の前には、分厚い「結婚式進行プロジェクト」のファイル。その白い表紙が、彼女の未来を嘲笑っているように見えた。冷たい怒りが、胃の底からせり上がってくる。
その時、パソコンの画面に社内チャットのポップアップが表示された。高橋健からだ。
『給与を30%引き上げる。プロジェクトが終われば、役員秘書への昇進も約束しよう』
続けてメッセージが届く。
『辞表は単なる当てつけだろう。仕事が終われば、また元の関係に戻れる。俺を信じろ』
身勝手な言葉の羅列。凛は返信を打とうとした指を止め、無言でチャットウィンドウを閉じた。彼との対話を、完全に放棄する。
午後になり、健が秘書室に現れた。
「中村。伊藤家へ挨拶に行く。同行しろ」
冷徹な声だった。凛は無表情で立ち上がり、手帳とタブレットを手に取る。健の後を追い、エレベーターで地下駐車場へと降りた。
運転手の井上誠が待機する、黒のマイバッハ。凛は健から最も遠い窓際の席に、深く体を沈めた。
車内の重苦しい沈黙の中、健が凛の手に触れようと、そっと手を伸ばしてきた。凛は、まるで汚れたものに触れられたかのように、露骨に体を避けて拒絶する。
健は不機嫌そうに舌打ちをし、窓の外へ視線を逸らした。二人の間の物理的な距離が、修復不可能な心理的な断絶を物語っていた。
車が伊藤家の豪邸に到着する。凛は先に降りて健のためにドアを開け、完璧な秘書の動作をこなした。
玄関が開くと、伊藤絢子が愛犬のポメラニアン「キューちゃん」を抱き、満面の笑みで出迎えた。
「健さん、お待ちしてましたわ!」
絢子は健の腕に抱きつき、わざと凛に見せつけるように甘えた声を出す。凛は視線を伏せた。
絢子が抱いている犬が、健の顔にぐいと近づく。その瞬間、健の表情が一瞬、強張ったのを凛は見逃さなかった。
彼は、重度の犬アレルギーだ。毛一本でも触れれば、呼吸困難に陥るほどの。
しかし健は、伊藤家の機嫌を取るため、無理に笑顔を作り、犬の頭を優しく撫でた。
「可愛い犬だね」
その直後、健の喉の奥から、ヒュー、と微かな音が鳴り始めた。アレルギー反応が出始めている。それでも彼は、必死に咳を我慢していた。
応接室に通されると、絢子が凛に向かって言った。
「あなた、台所へ行って、キューちゃんのお水を汲んできてくださる?」
まるで下働きに命じるような、高圧的な口調だった。
凛が反論しようとした瞬間、健が鋭い視線で凛を制した。絢子の指示に従え、という無言の圧力。
凛は唇を噛み締め、一礼して応接室を出た。台所へ向かう廊下を歩きながら、込み上げてくる屈辱感に耐える。
台所で犬の水入れを洗いながら、凛は健の姿を思い出していた。利益のためなら、自らの健康すら犠牲にする男。その姿に、かつて抱いていた尊敬の念は、今は軽蔑へと変わっていた。
水を持って応接室に戻ると、健の顔には赤い発疹が出始めており、呼吸がさらに苦しそうになっている。
それでも彼は、絢子の両親の前で完璧な婿を演じ続けていた。絢子の肩を抱き、仲睦まじさをアピールする。
凛は静かに犬の水を置き、壁際に控えた。目の前で繰り広げられる滑稽な茶番劇を、冷ややかな目で見つめる。
「高橋さんの秘書の方は、少し地味な格好ですのね」
絢子の母親が、値踏みするような視線で凛を嘲笑した。
「はは、彼女にはファッションのセンスがなくて。申し訳ありません」
健が、それに同調する。凛の七年間の献身を、一言で貶めた。
凛は一切の感情を顔に出さず、「申し訳ございません」と機械的に頭を下げた。自己防衛の壁が、また一枚、厚くなる。
その時、健の発疹が首元まで広がっているのが見えた。限界に達したのか、彼の手が震え、手元のグラスを倒してしまう。水がテーブルの上に広がった。
「失礼します」
凛は即座にハンカチを取り出し、健の服が汚れないように素早くテーブルを拭き取った。有能な秘書として、身体が勝手に動いてしまう。
その凛の素早い対応を見た絢子が、嫉妬に顔を歪ませた。
「余計なことしないで!」
絢子は、凛の手をわざと強く払い除ける。凛の手の甲が、テーブルの硬い角にゴツンとぶつかった。鋭い痛みが走る。
凛が痛みに顔をしかめる。しかし、健は絢子を宥めるだけで、凛の怪我には一切の関心を示さなかった。
「大丈夫かい、絢子。驚かせてすまない」
その瞬間、凛の中で、何かがぷつりと切れた。
健に対する最後の未練が、完全に消え去った。彼はもう、自分が愛した男ではない。ただの冷酷な、利益至上主義者だ。
その事実を、凛は骨の髄まで理解した。
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