
七年間尽くした秘書ですが、最強の御曹司と契約結婚します
章 3
健の呼吸音が、次第に荒くなっていく。顔面の紅潮は、もはや隠しきれていなかった。その様子を楽しげに眺めながら、絢子が突然、悪意に満ちた笑顔で口を開いた。
「そうだわ、凛さん。私の結婚式で、ブライズメイドをお願いできないかしら?」
ブライズメイド。花嫁の付添人。それは友情の証であると同時に、時に残酷な見せしめの道具にもなる。
凛は内心の嫌悪感を押し殺し、丁重に辞退の意を述べた。
「大変光栄ですが、当日はプロジェクトの総責任者として業務が立て込んでおりますので」
「あら、嫌なの?」
絢子は不満げに唇を尖らせ、健の腕を揺さぶる。被害者を演じるのは、彼女の得意技だった。
「健さん、凛さん、私のこと嫌いなのかしら……」
健は乱れる呼吸の中、凛に対して冷酷な視線を向けた。絢子の要求を飲め、という無言の圧力。凛が沈黙していると、健は低い声で囁いた。
「失態を演じるな」
それは、命令だった。凛は屈辱を噛み締めながら、小さく頷く。
「……お受けいたします」
承諾を得て満足した絢子が、さらに犬を健に近づけた。その瞬間、健が激しい咳を連発し、ついに限界を迎える。
「す、すみません……会社で緊急のトラブルが……!」
健は咄嗟に口元をハンカチで覆い、嘘をついて強引に席を立った。
健は絢子の両親に足早に頭を下げると、凛の腕を強く掴み、伊藤家から逃げるように外へ出る。
マイバッハに転がり込むように乗車した健は、ネクタイを引きちぎるように外し、獣のように荒い息を吐いた。
凛は冷静に鞄から常備している抗アレルギー薬とミネラルウォーターを取り出し、健に差し出す。
健は震える手で薬を受け取り一気に飲み込むと、運転手に怒鳴った。
「別荘へ!急げ!」
車が猛スピードで走り出す。凛は窓の外を見つめていた。隣で苦しむ男への同情心は、一滴も湧いてこなかった。
郊外のプライベート別荘に到着すると、健はふらつく足取りでリビングのソファに倒れ込んだ。
「氷水を持ってこい」
凛がキッチンで氷水を用意しリビングに戻ると、薬が効いて呼吸が落ち着いた健が、彼女をじっと見つめていた。
凛がグラスをテーブルに置こうとした瞬間、健が突然彼女の手首を掴み、強引に自分の胸元へ引き寄せた。
「……本当に愛しているのは、お前だけだ」
健は凛の耳元で囁く。身体的接触で、彼女を懐柔しようとしている。
凛は全身に鳥肌が立つほどの嫌悪感を感じ、力一杯健の胸を押し返した。
「離してください」
冷ややかな声だった。
「あなたのその薄情さ、そして先ほどの伊藤家での滑稽な媚びへつらい。反吐が出ます」
図星を突かれた健は激昂した。
「うるさい!」
彼はテーブルの上のグラスを床に叩きつける。ガラスの破片が、凛の足元に派手に散らばった。
「俺がお前を見捨てるはずがないだろう! すべては高橋家を守るための犠牲なんだ!」
自己正当化の叫び。凛が一歩後ずさりすると、健は距離を詰めてくる。
「俺たちは、永遠の愛を誓ったはずだ」
過去の言葉で、彼女を精神的に縛り付けようとする。健は凛の顎を乱暴に掴んだ。
「お前は一生、俺から逃げられない」
呪いのような言葉。凛は恐怖よりも深い絶望を感じ、彼の手を冷たく振り払った。
その時、静寂を破って凛の携帯電話が鳴り響いた。画面には、祖母が入所している療養施設からの緊急着信が表示されている。
凛が電話に出ると、看護師の切羽詰まった声が聞こえた。
「凛さん! おばあ様の容態が急変して……!」
凛の顔から、血の気が引いた。
「行かなきゃ……」
凛は健を完全に無視して鞄を掴み、玄関へ向かって走り出す。
「何があった?!」健は突然の事態に眉をひそめ、反射的に凛の細い腕を掴んだ。「祖母が……!容態が急変したんです、離して!」凛は血の気を失った顔で叫び、必死にその手を振り解こうとする。健の目に一瞬の躊躇が走り、その僅かな隙を突いて凛は振り返らずにドアを開けた。
別荘の外は、激しい雨が降り始めていた。凛は雨に打たれながら、タクシーを呼ぶためにスマートフォンを操作する。
背後から、健が傘も差さずに追いかけてきた。
「俺の車で行け!」
健は強引に彼女を自分の車に押し込もうとし、二人の揉み合いが始まった。雨音が、二人の未来をかき消していくようだった。
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