
裏切られた令嬢の華麗なる復讐:元夫よ、もう遅い
章 3
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光で、佐藤健はソファの上で目を覚ました。彼は大きく伸びをすると、気だるげにベッドへと歩み寄った。
静が、すでに目を開けていることに気づくと、健は瞬時に、心配そうな夫の仮面を被った。
「静、気分はどうだ? 昨日は心配で、一睡もできなかったよ」
そう言いながら、健は静の手を握ろうとする。
そのわざとらしい口調に、静は吐き気を覚えた。点滴の麻酔で痛みは鈍くなっているが、頭の中は氷のように冷えていた。昨晩、布団の中で固めた決意――シュレーディンガーの薬の封印を解く――が、彼女の瞳の奥で静かに燃えている。彼女は、健の手を振り払いたい衝動をぐっとこらえ、無言で自分の手を引き抜いた。
「少し、疲れているだけ」
その声は、自分でも驚くほど平坦だった。
その時、病室のドアが、ノックもなしに勢いよく開かれた。佐藤結衣が、娘の愛の手を引いて、ためらいもなく入ってきたのだ。結衣の手には、高級そうなフルーツバスケットが提げられている。その顔には、天使のような無垢な笑みが浮かんでいた。
「静お姉様、お加減はいかがですか?」
その甘ったるい声が、静の神経を逆撫でする。静の視線が、一瞬、結衣の手首に巻かれた、あの忌まわしいダイヤモンドのブレスレットに注がれた。あれは、西園寺家の配当金から流出した私の個人資産だ。すぐに返してもらう。心の中で呟き、目が氷のように冷たくなる。
健は、結衣の突然の登場に、一瞬だけ狼狽の色を見せた。まだ静から技術を奪い取っていない段階での接触は、彼にとっても誤算だったのだ。しかし、結衣の強引な振る舞いを見て、彼は瞬時に計算を切り替えた。重傷を負った静は、もう自分に逆らう力などないはずだ、と。
「結衣が、君が事故に遭ったと聞いて、わざわざ横浜から見舞いに来てくれたんだ」
愛が、結衣の手を振りほどき、ベッドのそばに駆け寄ってきた。そして、静の足に巻かれたギプスを、不思議そうに見つめている。
「愛ちゃん、だめでしょ」
結衣は、口先だけで娘を叱ると、ごく自然に健の隣に腰を下ろした。二人の肩が、ぴったりと触れ合っている。
静は、目の前で繰り広げられる茶番劇を、冷めた目で見つめていた。唇の端に、嘲りの笑みが浮かぶ。結衣が、バッグから一枚の書類を取り出した。
「見てください、お兄様。住民票の移動届、もう準備できたんです。来月と言わず、すぐにでも出せますね」
そう言って、無邪気な子供のように笑う。
静の瞳孔が、鋭く収縮した。彼女は、ナイフのような視線で健を射抜き、低く尋ねた。
「どういうこと?」
健は、静の厳しい視線から逃れるように、目をそらした。だが、すぐに開き直ったような冷笑を浮かべた。
「いや、その……君もこんな体だ。退院しても家事は無理だろう? 結衣たちに西園寺の家に入ってもらって、身の回りの世話をさせるのが一番合理的だと思ってね……」
それは、介護を口実にした家乗っ取りの宣言だった。
「ふざけないで、絶対に許さない」
静が、はっきりと拒絶の言葉を口にすると、結衣の目が、みるみるうちに潤んでいった。彼女は、今にも泣き出しそうな顔で、健の服の裾を弱々しく掴んだ。その姿を見た途端、健の態度は一変した。
「静!なんて言い草だ! 今の君に何ができる? 結衣の厚意を無下にするな!」
健は、まるで静が悪者であるかのように、大声で怒鳴りつけた。彼は、静が心身ともに衰弱していると思い込み、一気に主導権を握ろうと賭けに出たのだ。
静は、怒りを通り越して、笑いさえこみ上げてきた。彼女は、病室のドアを指差し、冷たく、はっきりとした声で言った。
「出て行って」
健は、面子を潰されたと感じたのだろう。顔を真っ赤にして、静を指差した。
「そんな頑固だから、義父さんにも見放されるんだ! 住民票は予定通り移させてもらう。君に拒否権はない!」
その剣幕に、愛が驚いて泣き出した。
結衣は、待ってましたとばかりに愛を抱きしめ、涙を流しながら静に頭を下げた。
「ごめんなさい、お姉様、私たちが、お姉様を怒らせてしまったんですね……」
その言葉は、一見謝罪しているようで、その実、静が理不尽に弱い者いじめをしているのだと、暗に非難していた。
健は、そんな結衣を庇うように抱き寄せ、静に吐き捨てるように言った。
「住民票はもう移したんだ、お前に、拒否権はない!」
そして、結衣と愛を連れて、病室から出て行った。バタン、とドアが乱暴に閉められる音が、部屋に響き渡った。
病室に、再び静寂が戻る。静は、目を閉じ、激しく波立つ胸を鎮めるように、深く息を吸った。全身の節々が悲鳴を上げているが、指先は動く。
彼女は、スマートフォンを手に取り、まず加藤弁護士に電話をかけた。
「資産の洗い出し、急いでください。特に、結衣名義で保有する横浜のマンションと、彼女の手首にあるダイヤモンドブレスレットの購入記録。すべて西園寺家の資金から流出している。回収の法的準備を整えて。」
次に、家政婦の山田に電話をかける。
「屋敷の客室の鍵を、全て交換してください。それから、警備会社に連絡し、西園寺家の正門の防犯カメラの録画を24時間体制で開始するよう手配して。」
電話を終え、ちょうど薬を交換しに来た看護師に、ノートパソコンを一台貸してほしいと頼んだ。
「仕事の緊急連絡が必要なんです」
と、青白い顔で微笑む静に、看護師は同情して私物の端末を貸してくれた。
静は、病室の窓に目をやった。中庭のベンチに、手に包帯を巻いた男の影が座っている。四〇二号室の患者……西園寺家の監視役なら、まだ動くな。今は私が先に動く。
彼女は、佐藤が経営する「佐藤ビューティー・テクノロジー」の最近の財務諸表を開いた。その瞳には、獲物を見つけた狩人のような、鋭い光が宿っていた。画面の数字を追いながら、同時に脳裏で『シュレーディンガーの薬』の全データを呼び起こす。あの研究結果があれば、西園寺製薬の取締役会で健の追放を提案できる。彼の裏帳簿と合わせて、完璧な包囲網だ。
静の指が、マウスの上で滑らかに動く。既に、証拠のスクリーンショットは端末に保存済みだった。彼女は、最後に一通の暗号めいたメールを送信した。宛先は、西園寺本家の財務顧問・川崎。
「シュレーディンガーの箱を開ける準備完了。鍵は私が持っている。」
送信後、静はゆっくりとパソコンを閉じた。窓の外では、横浜の港が朝日に輝き始めていた。
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