
余命宣告、彼との終焉
章 3
(桜庭杏樹 POV)
私は春斗のためにここに来たわけではなかった. 簡単な打ち合わせを終え, 彼に一瞥もくれず, 私はその場を立ち去ろうとした.
エレベーターホールに向かおうとしたその時, 私の目の前に一人の女性が立ちはだかった. 梅田凛香だった.
「何よ, この泥棒猫! 」凛香は, 興奮した様子で私を指さした. 「私の役を奪うなんて! どういうつもりなの! ? 」
私は驚きよりも, むしろ感心した. 指示を出してから, まさかここまで早く動いてくれるとは. 監督の仕事の速さに, 私は少し口角を上げた.
凛香の叫び声は, フロア中に響き渡った. 周りのスタッフや他の俳優たちが, 何事かとこちらを振り返る. 好奇の目が, 私と凛香に集中した.
その視線の中に, 春斗の姿もあった. 彼は信じられないといった表情で, 私を見つめていた. 彼の目には, 「一体, 何をしたんだ? 」という疑問がはっきりと浮かんでいた.
面倒だった. いちいち説明するのも, 言い訳するのも. 私はまっすぐに凛香の目を見て, 淡々と言い放った. 「私がやったことよ. 何か? 」
「なぜよ! ? 」凛香はヒステリックに叫んだ. 「どうしてそんなことができるのよ! あんたなんかに, 何の恨みがあるって言うの! ? 」
「この役は, 私がどれだけ努力して, どれだけ必死になって手に入れたか, あんたにわかるわけないでしょ! 」彼女の声には, 絶望が滲んでいた.
私はちらりと秘書に目をやった. 秘書はすぐに意図を察し, 周囲のスタッフに目配せをした. あっという間に, 周りから人影が消えていく.
私たちは, 近くの空いている休憩室に移動した. 重い沈黙が, 三人を取り囲む. これから起こるであろう衝突を予感させる, 張り詰めた空気だった.
私はソファに座った凛香を見下ろした. 彼女の顔は, まだ怒りで紅潮していた. 「私を挑発した結果よ. 自業自得だと思わない? 」
春斗は, 呆然とした表情で私たちを見ていた. まるで, 何もかもが彼の知らないところで起こっているかのように. 彼は唇を震わせ, 何かを言いたそうにしていた.
「一体, 何なんだよ, あんじゅ... 」春斗は, ようやく絞り出した声で私に尋ねた. 「どういうことなんだ? 」
私は無言でスマートフォンを取り出し, 春斗に差し出した. 画面には, 凛香が送ってきた, 彼との親密な写真の数々が表示されていた.
写真を見た春斗の顔は, みるみるうちに青ざめていった. 彼は凛香を睨みつけ, 怒りに満ちた声で叫んだ. 「お前, 俺の彼女だって言ったのか! ? 」
彼の言葉が終わるや否や, 春斗の手が凛香の頬を強く叩いた. 乾いた音が, 静まり返った部屋に響き渡る. 凛香は, その場に倒れ込んだ.
春斗は凛香を一瞥もせず, 私に駆け寄ってきた. 彼は私の手を握り, 甘えるような声で囁いた. 「あんじゅ, ごめん. 俺, 何も知らなかったんだ. 」
「なあ, 頼むよ. このドラマ, 凛香が主演じゃないと困るんだ」彼は私を必死に説得しようとした. 「撮影スケジュールに影響が出る. 俺の仕事にも. 」
私は何も答えず, 彼の腕を振り払って部屋を出た. 彼の言葉は, もはや私の心には響かなかった.
自宅に戻ると, 秘書から報告が入った. 新しい主演女優は無事に見つかったらしい. しかし, 凛香はまだ現場を離れようとしないとのことだった.
撮影は続くが, 春斗と新しい主演女優の間には, どうにもぎくしゃくした空気が漂っていると聞いた. 彼はしきりに, 凛香を戻せないかと制作陣に交渉しているらしい.
その日の夜遅く, 春斗は憔悴しきった顔で帰宅した. 彼の顔には, 疲労と困惑の色が深く刻まれている.
彼は私の前にひざまずいた. 「あんじゅ, 頼むよ. 凛香を戻してくれ. この作品を成功させるためには, どうしても彼女が必要なんだ. 」
私は彼の目を見つめた. 「彼女のことが好きなの? 梅田凛香が. 」
彼は慌てて首を横に振った. 「違う! そんなわけないだろ! 俺が好きなのは, あんじゅだけだよ. 信じてくれ. 」
私は彼に二つの選択肢を提示した. 「一つ. 梅田凛香を現場から完全に追い出し, 私たちの関係を公表する. 二つ目. 今の新しい女優と最後までやり遂げる. どっちを選ぶ? 」
彼は再び, 目を逸らした. 「だから, 公表はできないって言ってるだろ! 今が一番大事な時期なんだ! どうして, あんじゅは俺の気持ちをわかってくれないんだ! ? 」
「俺は浮気なんかしてない! 信じてくれ! 」彼は感情的に叫んだ. 「なんで, あんじゅだけそんなに俺を疑うんだ! 」
「わかったよ! 凛香のことは, 俺がちゃんと処理する! 」彼は頭をかきむしるように言った. 「だから, あんじゅはもう, これ以上何もするな! 」
私は彼の腕を掴み, その体をソファに押し倒した. そして, 彼の顔を無理やり私の方に向けさせた. 彼の目には, 驚きと恐怖の色が浮かんでいた.
彼は屈辱に顔を赤くし, 怒りに満ちた目で私を睨みつけた. 彼の喉からは, うめき声のようなものが漏れていた.
「何するんだよ, あんじゅ! 」彼は, ようやく絞り出した声で怒鳴った. 「何なんだ, 一体! 」
私は彼の唇に, 自分の唇を押し付けた. それは愛のキスではなかった. 別れの, そして, 決別のキスだった.
唇を離すと, 私は冷たく言い放った. 「わかったわ. あなたの選択を受け入れる. 」
私は彼から体を離し, ソファに倒れ込んだ彼を見下ろした. 彼の目は, まだ混乱と怒りに満ちていた.
「私のたった一つの願いすら叶えられないなら, もう何もかも, どうでもいいわ. 」私の声は, ひどく冷たかった.
「あんじゅ... 何を言ってるんだ? 」彼は, まだ状況を理解できない顔で, 私に問いかけた.
私は何も答えなかった. ただ, 一歩ずつ, 重い足取りで階段を上がっていった. 彼の声が, 背後から聞こえるが, もう私には届かなかった.
私の心の中で燃え盛っていた, 彼への情熱の炎は, 完全に消え去っていた. 冷たい灰だけが, そこに残されていた.
私に残された時間は, もうわずかだ. そんな貴重な時間を, 彼のような男に費やしている場合ではない.
私は決意した. もう二度と, 彼のために私の命を無駄にすることはない. 私の音楽は, 私の才能は, もっとふさわしい誰かのために使う.
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