
偽りの結婚生活の終焉:天才AIアーキテクトの華麗なる復讐
章 3
その夜、凛はホテルの一室で一睡もせずに明かした。翌朝、雨は上がり、東京の空は冷たく晴れ渡っていた。
彼女は決意を固め、地下鉄に乗り、再び九条家の邸宅へと向かった。昨夜の「一時的な離脱」では足りなかった。法的に、完全に、この結婚に決着をつけるために――。
迷うことなく階段を上り、主寝室のウォークインクローゼットから黒いキャリーケースを引き出した。ハイブランドの服やバッグには一切触れず、自分で稼いだ金で買った簡素な服だけを淡々と詰めていく。慧が贈ったダイヤのネックレスも、指一本触れなかった。
ドレッサーの引き出しから家族カードを取り出し、音を立てて机の上に置く。
書斎へ向かい、ノートパソコンを開いた。弁護士に作らせておいた離婚協議書のPDFに、迷いのない筆跡で「高橋凛」と電子署名し、慧の業務用メールアドレス宛に送信する。さらに九条グループの顧問契約解除通知書も同様に送付した。
「これで、すべて終わる」
一階へ降りると、家政婦の和子が驚いた顔で立ち尽くしていた。
「奥様、こんな夜更けにどちらへ……?」
「少し家を空けます。探さないでください」
凛は足を止めずに告げた。和子は凛の瞳に浮かぶ氷のような決意を見て、言葉を呑み込む。
リビングの前で一瞬だけ足を止め、サイドボードの上の家族の絵——葵が幼稚園の頃に描いた三人の笑った絵を、裏返して伏せた。
重い玄関のドアを押し開き、一度も振り返ることなく、夜の闇へと消えていった。
数時間後、慧と葵が上機嫌で帰還する。
「パパ、雅おば様のネックレス、絶対喜んでくれるよね!」
「ああ。葵が選んだからな」
慧は和子に葵を風呂に入れるよう指示し、書斎へ向かった。主寝室の前で足が止まる。ドアがわずかに開き、ベッドは整えられたまま。ドレッサーの上に家族カードが一枚。
「またか。三日もすれば戻ってくるだろう」
彼は自己完結し、ドアを閉めた。和子から詳しい報告を受けようともしない。
書斎でメールチェックを始めるが、未読メールの山の中に埋もれた「離婚協議書送付の件」も「顧問契約解除通知」も、慧の目に留まることはなかった。一瞥もせずに受信トレイを閉じ、頭の中は明日の雅の来訪でいっぱいだった。
その夜、葵はベッドに入ってから落ち着かなかった。
いつもなら凛が部屋に来て、布団を整え、額にキスをして電気を消す。今夜は和子が「おやすみなさい」と言っただけだった。
「……別に、ママがいなくてもいいし」
そう呟いて目を閉じたが、枕から凛のヘアオイルの香りが消えていることに気づく。洗濯されたのだ。葵は枕を抱きしめたまま、なかなか眠れなかった。
「雅おば様の方が、ぜったい、いいんだから」
そう言い聞かせて目を閉じた声は、自分が思うよりずっと小さく、か細かった。
深夜、慧が書斎を出ると、リビングの灯りが消えている。いつもなら凛が本を読んで待っていた。今は誰もいない。
月明かりだけが空っぽのソファを照らしていた。慧は一瞬眉を寄せたが、すぐに階段を上っていく。
その時、デスクの上のスマートフォンが短く震えた。
吉田秘書からの緊急メッセージ。
『社長、J-ALPHAのメインシステムに原因不明のエラーが発生。全サービスが停止しています。至急ご連絡ください』
しかし慧はすでに寝室へ向かっていた。画面の明かりは暗闇の中で一度、二度点滅してから消えた。
翌朝。玄関のチャイムが響いた。
和子がドアを開けると、キャリーケースを引いた雅が立っていた。
「おはよう。今日からしばらく、お世話になるわね」
雅は新しい女主人のように優雅に微笑み、屋敷に上がる。葵が階段を駆け下りて歓声を上げた。
「雅おば様!」
二人の笑い声がリビングに響く中、和子は黙って、伏せられたままの家族の絵を元に戻した。
離婚協議書は誰にも読まれないまま、電子の海に沈んでいった。
しかし——凛が消えたこの夜から、九条家の歯車は静かに狂い始めていた。
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