
捨てられ妻、今は大物に抱かれています
章 3
新鹿花月の目に、かすかな陰りが射した。
あのことを口にするほど愚かではない。だから、彼女は適当に言い訳をこしらえてごまかした。「結婚してからの2年間、彼女は名前を伏せて家庭に入ってた。あんたとは差がつきすぎたのよ。もしあんたがもっと強引な手を打ってたら、彼女に反論する余地なんてなかったんじゃない?」
伊藤友征は唇をきゅっと結んだ。
あの2年間、柴田友子は確かに彼に多くの助力を惜しまなかった。心を込めて、身を削るようにして彼を愛していた。
だが──単なる愛だけでは、何の意味ないんだ
彼は這いあげて、ここまでたどり着いて
ようやく手に入れた今の地位を、どうにか守り抜くには、権力者の後ろ盾が必要だった。
新鹿家のお嬢様という肩書きは、柴田友子の愛なんかより、はるかに価値があった。
そんなことを考えていると、艶やかな紅い唇がふいに近づいてきた。「友征、やっと地獄から抜け出せたわね。お祝い、しない?」
伊藤友征は伏し目がちに彼女を見下ろしながら、なぜか脳裏に柴田友子の冷ややかな顔がよぎった。
──家を出てから、もうこんなに時間が経っているのに。彼女は一度も、帰ってこいと電話を寄越してこない。
以前なら、彼がほんの少し様子を違えただけで、彼女はすぐに取り乱していたのに──
胸の奥に、言いようのない苛立ちが込み上げる。彼は思わず彼女を突き放した。「君、今は妊娠中だろ。もう少し自重しろ」
新鹿花月は、どこまでも抜け目のない女だった。
彼の気がどこか上の空なのを、新鹿花月はあっさり見抜いた。「どうしたの、友征。まさか…離婚したくない?」
彼はすぐさま否定する。「まさか、そんなわけないだろ」
「でも、なんだか顔が晴れないじゃない」
伊藤友征は、彼女をなだめるように言った。「親父の病状が悪化して、もう長くないかもしれない。久野斯年が急いで帰国したんだ。たぶん家の継承の件で動いてる。どう対処するか、俺も今考えてるところだ」
新鹿花月はふと目を見張った。「久野斯年…? 伊藤家の正妻が産んだ息子ってやつ? だって、もう『伊藤』の苗字じゃないんでしょ。そんな奴に、あんたと家督を争う資格なんてある?」
伊藤友征の瞳に、薄い翳りが落ちた。
口ではそう言えても──結局のところ、自分こそが“私生児”なのだ。
この何年も、心血を注いでここまでのし上がってきたのは、伊藤家で認められるためだけじゃない。
それ以上に──同じ血を引く、あの異母兄・久野斯年を押さえつけたかった。
どうあっても──彼は勝たなければならなかった。
一方その頃、友子はぐっすり眠ったまま、気づけば外はもうすっかり夜になっていた。目を覚ましたはずなのに、体は余計に重だるい。
夢の中、彼女は見知らぬ男に何度も何度も奪われていた。
薬のせいか、それとも──あの男の腕前があまりに巧みだったのか。
今こうして目覚めても、まだ身体の芯がふわふわしていて──柴田友子は、思わず頬を赤らめた。
友人からの電話を受けたときも、柴田友子はまだ心身ともにふわついたままだった。
電話の向こうで、咲耶衣夢がすぐに異変を察する。「ちょっと、声が妙に色っぽいんだけど?何、あのクズ男と一発ヤって水に流したってわけ?」
柴田友子は軽く咳払いしながら、たしなめるように言った。「縁起でもないこと言わないで」
咲耶衣夢は、けたけたと笑い声を上げた。
「そうだ友子、あんたの血液検査の結果、もう出たよ。検出された薬の成分、私の知り合いに渡しておいた。コネの広い人だから、もしかしたら購入者の情報がつかめるかも」
柴田友子は気を取り直して、声に力を込めた。「ありがとう、衣夢」
「本当に感謝してるなら、あのクソ男に未練タラタラになるのはやめて。離婚したんだから、これからはちゃんと仕事に集中しなさいよ」
そのまっすぐな言葉に、柴田友子の胸はじんわりと温かくなった。彼女は目を伏せ、小さく答えた。「…うん、わかってる」
よくよく思い返してみれば──自分が伊藤友征を好きだった理由のほとんどは、感謝の気持ちからだった。
特別な家庭に生まれ、周囲の期待に押し潰されそうな日々。抑圧された子ども時代、ずっとそばで支えてくれたのが彼だった。励まし、寄り添ってくれた存在。
その寄り添いから、やがて曖昧な情が芽生え──それを恋だと、彼女は勘違いしたのだ。
「愛に飢えてることにも、誰かにすがらないことにも慣れちゃったから…だから執着なんてしないの」 柴田友子はスマホを見つめながら、ぽつりと呟いた。「この2年はね、あの頃、伊藤友征がくれた優しさの、ただの返礼だったって思うことにしたの」
咲耶衣夢の脳裏に、過去の風景がちらついた。確かに――あの頃の伊藤友征は、本気で彼女を想っていた。
けれど、真心なんてものは、一瞬で色褪せる。
「友子…本当に、忘れられたんだ本当に忘れられたらいいんだけど」
柴田友子の鼻先がつんと熱くなった。彼女は慌てて目元を手で覆い、涙をこらえた。
そのときになって、ようやく気がついた。薬指が、空っぽになっている。
しばらく呆然としたあと——
指輪が、なくなっていた。
あれほど大事にしていたのに、一日と一晩が過ぎて、やっと失くしたことに気づいたのだ。
きゅっと締めつけられていた胸の奥が、ふっと力を抜いたように緩んでいく。友子は小さく呟いた。「…うん、本当に、手放せた」
……
指輪がなくなったことは、すぐに伊藤友征の耳にも入った。
彼は用事で一度戻ってきたとき、柴田友子の指がすっかり何もつけていないのに気づき、思わず尋ねた。「俺たちの結婚指輪は?」
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