
見捨てられた妻は、天才デザイナーとして華麗に舞う
章 3
凛が寝室のドレッサーの前に座り、鏡に映る血の固まった額を無表情で見つめていると、背後でドアが乱暴に開かれた。
救急箱を持った暁が、苛立ちを隠さずに部屋へ入ってくる。
「意地を張るな」
命令口調で言いながら、暁は凛の肩を掴み、無理やり椅子に座らせ直した。凛は抵抗せず、まるで魂の抜けた人形のようにされるがままになる。
暁が、不器用に消毒液を含ませた綿を、躊躇なく傷口に押し当てた。
「……っ!」
焼けるような激しい痛みに、凛の身体がビクッと跳ねる。だが、声は一切出さなかった。ただ、鏡越しに映る暁の顔を、氷のように冷たい目で見つめ続ける。
凛の無反応さに、暁の苛立ちはさらに募った。
「なぜ何も言わない」
舌打ちをして、暁が手を止める。
その瞬間だった。
彼のポケットの中でスマートフォンが震え、寝室に特別な着信音が響き渡った。その音を聞いた途端、暁の険しい顔が瞬時に和らぐ。慌ててスマホを取り出す彼の目に、画面の『絢子』という文字が映った。
それを見た凛の唇の端が、微かに吊り上がった。自嘲の笑みが、静かに漏れる。
暁は凛から数歩離れて電話に出た。
「どうした、絢子」
先程までの彼とは別人のような、甘く優しい声。
電話の向こうで、絢子が泣きそうな声で訴えているのが聞こえる。「階段から転落してしまって……痛くて、動けないの。もしかしたら、骨折してるかもしれない……」
途端に、暁の顔色が変わった。
「すぐに行く。いいか、絶対に動くなよ」
緊迫した声でそう言うと、彼は電話を切った。血の滲む凛の額を一瞥するが、その躊躇いは一瞬で消え去る。
「絢子が怪我をした。手当ては千代にやらせろ」
そう言い放ち、暁は救急箱をテーブルに乱暴に放り投げた。ガシャン、と音を立てて落ちた救急箱から、白い包帯が床に転がり落ちる。暁は、それを拾おうともしなかった。
「……私の頭の傷より、彼女の骨折の疑いの方が、重傷なのですね」
凛が、淡々とした声で問い詰める。
図星を突かれた暁は顔をしかめ、理理不尽な言い訳を口にした。
「彼女は一人暮らしで心細いんだ。お前とは違う」
その時、ドアの隙間から桜子が顔を覗かせた。
「お父さん、絢子おばちゃんのとこ行くの?」
目を輝かせる娘に、暁が頷く。
「私も行く!早くおばちゃんを助けてあげて!」
桜子は父親の背中を押し、そして、振り返って凛に言った。
「お母さんは一人で大丈夫でしょ?」
無邪気な残酷さが、凛の心を抉る。
凛は床に転がった包帯を見つめたまま、感情のない声で答えた。
「ええ。大丈夫よ」
暁は桜子の手を引き、一度も振り返ることなく、足早に寝室から出て行った。
バタン、とドアが閉まる音が部屋に響き渡り、完全な静寂の中に、凛は一人取り残された。
ゆっくりとしゃがみ込み、床に落ちた包帯を拾い上げる。血で汚れた手で、それを強く、強く握り締めた。事故の後遺症か、吐き気が込み上げてきたが、凛はそれを無理やり飲み込む。肉体の痛みなど、もはやどうでもよかった。
鏡の中の自分と、目が合う。
かつて、天才デザイナーと呼ばれた自分。その見る影もない、惨めな姿。強い嫌悪感が込み上げてきた。
凛は洗面所へ向かうと、洗面器に冷たい水を張り、顔についた血と涙の痕を、ゴシゴシと洗い落とした。傷口が開いて再び血が流れるが、心の痛みに比べれば、もはや何も感じなかった。
タオルで顔を拭いた時、凛の瞳から、暁への未練も、桜子への期待も、すべてが完全に削ぎ落とされていた。
クローゼットを開け、暁が買い与えた高級な服を、一枚残らず床に引きずり下ろす。
そして、一番奥に隠してあった箱を取り出した。中に入っていたのは、大学時代に着ていた、安価だが着心地のいい、シンプルなカットソーとジーンズ。
凛はその服に着替えると、鏡の前に立った。
深く、息を吐き出す。
決別のための行動を、今、開始する。
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