
捨てられた妻の華麗なる逆転
章 2
(坂上杏樹 POV)
冷たい風が, 私の頬を撫でた.
病院のベンチに座り, 吐く息が白く染まるのを見つめる.
冬は, もうすぐそこまで来ていた.
薄手のコートをぎゅっと握りしめ, 体を縮こませる.
博信が, 私を庭に閉め出した時のことを思い出した.
「反省するまで, そこから動くな」
そう言われ, 私は何時間も, 本当に何時間も震えながら庭に座っていた.
あの頃の私は, なぜあそこまで彼に執着していたのだろう.
「杏樹」
低い声が, 私の耳元で響いた.
博信の手が, 私の肩に触れる.
ぞっとするほどの嫌悪感が, 全身を駆け巡った.
私はゆっくりと目を開けた.
彼の瞳には, どす黒い欲望の光が宿っていた.
かつての私なら, 彼のこの視線に, ほんの少しの期待を抱いたかもしれない.
彼が私を求めている, と.
けれど, 今の私には, 彼の視線はただ, 汚らわしいものにしか映らなかった.
私は, 彼の手に触れられた肩をそっと払い除けた.
「体調が, まだ良くないので」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
博信は, 私の返答に, 不機嫌そうな顔をした.
「まだ怒ってるのか? 江美のことか? 」
彼は, 私の顔を覗き込んだ.
「あいつとは, ただの友人関係だ. お前が勝手に騒ぎ立ててるだけだろう」
「もっと寛大になれないのか? 」
彼の言葉は, まるで響かなかった.
私は, 再び目を閉じた.
彼の声は, 遠くで犬が吠えている音のように, ただの雑音として耳を通り過ぎていった.
博信は, 私の反応に苛立ちを募らせた.
「おい, 杏樹! 聞いているのか! 」
彼は, 語気を強めた.
「江美が言っていたぞ. お前は本当に, つまらない女だって」
彼の言葉に, 私の心は微塵も動かなかった.
動くべき感情が, もう私には残されていなかった.
「いいだろう. そこまで言うなら, もう二度とお前に触れない」
博信は, そう言い捨てると, 乱暴に立ち上がり, ドアをバタンと閉めて部屋を出て行った.
私は, ゆっくりと目を開けた.
かつての私は, 彼の言葉に怯え, 彼の態度に傷つき, 彼に嫌われることを恐れて, 彼の機嫌を取ろうと必死だった.
どれほど, 愚かだったのだろう.
もう, 何もない.
何も, 残っていない.
次の日の朝, 私は博信と結月の朝食を用意しなかった.
ゆっくりと淹れたコーヒーを飲みながら, 窓の外を眺める.
離婚届は, すでに提出済みだ.
あとは, 成立を待つだけ.
私は, 小さく微笑んだ.
自由だ.
やっと, 自由になれる.
過去の自分を, 嘲笑したくなった.
彼に, 結月に, どれほどの時間を, 心血を注いできたのだろう.
それは, 全て無駄だった.
スマートフォンがまた鳴った.
江美のSNS投稿だった.
「博信とラブラブな朝食♡」
そう書かれたキャプションの下には, 博信が江美に朝食を作ってあげている動画が添付されていた.
博信の顔には, 私に向けられることのなかった, 穏やかな笑顔が浮かんでいる.
まるで, 完璧な夫を演じているかのように.
私は, 博信が台所に立つ姿など, 見たことがなかった.
彼は, 料理が嫌いだった.
「お前が作ればいいだろう」
それが, 彼の口癖だった.
動画を一瞥し, 私はスマートフォンをソファに投げつけた.
彼が, 江美に朝食を作ってあげていようが, 江美と恋人のような関係を築いていようが, もう私には関係ない.
彼が離婚を申し出るなら, 喜んで受け入れよう.
結月が, 階段を降りてきた.
私の存在を無視して, 冷蔵庫を開ける.
「ママ, 朝ごはんまだ? 」
結月は, 私を睨みつけた.
「なんで朝ごはんがないの? 早く作ってよ! 」
その声には, 苛立ちと, 当然の権利を主張する響きが混じっていた.
私の心は, 何も感じなかった.
目の前にいるのは, かつて私が命懸けで守り, 愛した娘ではない.
「朝ごはんは, ないわ」
私の声は, 驚くほど平坦だった.
「パンとフルーツならあるけど, どうする? 」
結月は, 私の言葉に驚いた顔をした.
けれど, すぐにいつもの悪意ある表情に戻った.
「あんた, 調子に乗らないでよ! パパに言いつけるからね! 」
「大丈夫. 江美ママに作ってもらえばいいんじゃない? 」
私は, そう言い残し, 立ち上がって寝室へと向かった.
クローゼットを開ける.
中には, 博信が結婚当初に買ってくれた服がいくつかあったけれど, この数年間, 新しい服は一枚も増えていなかった.
博信は, いつも私に生活費を渡すのを渋った.
「お前は, 金遣いが荒い」
それが, 彼の口癖だった.
けれど, 江美には惜しみなく高価なプレゼントを贈っていたことを, 私は知っている.
私は, 無感情な表情で, まだ着られそうな服をいくつか選んでバッグに詰めた.
そして, そのまま家を出た.
マンションの入り口で, バラの花束を持った博信と鉢合わせした.
彼は, 私を見て, 驚いた顔をした.
私は, 彼を一瞥し, 手元のバッグをそのままゴミ箱に捨てた.
「おい, 杏樹! それ, 俺が買ってやった服だろうが! 」
博信の声が, 背後から聞こえた.
「もうサイズが合わないから」
私は, 冷たい声でそう言い捨て, 彼に背を向けた.
彼の顔には, 焦燥と, 今まで見たことのない不安の色が浮かんでいたけれど, もう私には関係ない.
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