
天才外科医、記憶喪失の婚約者を治療中。
章 2
そこまで言って、竹内泰輝はふと数年前に妻と電話で話した時のことを思い出したようだ。娘の汐月は大学受験すらしなかったと、そう聞いた気がする。彼はため息をついた。 「お前も、優桜みたいに優秀だったらなぁ」
汐月はその言葉に答えなかった。むしろ滑稽でさえある。竹内優桜のことなら、どんな些細な癖でも覚えているくせに。
自分のこととなると、大学進学という大事なことさえろくに確かめもせず、 妹より劣っていると決めつけるのだ。
竹内家のすべてが、汐月には馴染みがなかった。ここも自分の家であるはずなのに、足を踏み入れるのはこれが初めてだった。
母の奈美は汐月を彼女の部屋へ案内すると、いかにも心配しているという顔で微笑みかけた。「何か気に入らないことがあったら、遠慮なくママに言うのよ、いい?」
汐月は頷き、平坦な声で答えた。「ありがとう、お母さん」
「まあ、この子ったら水臭いわね。私はあなたの母親なのよ、そんなに遠慮することないじゃない?」
奈美がひとしきり説明を終えてもまだ部屋から出て行かないのを見て、汐月は尋ねた。「まだ何か?」
奈美と泰輝は長年苦労を重ね、ある好機を掴んでようやく豪門の仲間入りを果たした。
しかし、その世界では彼らは「成金」であり、いまだに見下す者も少なくない。
一方、清水家は、その歴史的背景、人脈、財力のいずれにおいても、正真正銘のトップクラスの豪門だった。
だからこそ、清水家から縁談が持ち込まれた時、奈美がこの機会を逃すはずがなかった。
清水家と縁組をすることの利点は、目を閉じていても分かるほどだ。
しかし、清水晟暉はすでに再起不能の身。溺愛する末娘を嫁がせることだけは、どうしても受け入れられなかった。だからこそ、長女を連れ戻すことにしたのだ。
だが、長女の透き通るような瞳を見ていると、奈美の心にかすかな罪悪感が芽生えた。
この娘を幼い頃からそばで育ててこなかったことへの罪悪感は本物だが、愛情がないのもまた、事実だった。
でも、と奈美は考え直した。汐月は田舎育ちで、ろくに学もない。碧山町という片田舎の町医者をしているだけの娘だ。そんな娘が清水家のような家に嫁げるのなら、たとえ相手が再起不能でも、使い尽くせないほどの富と栄華が手に入る。
これは、あの子のためにより良い将来を考えてやっているのだ。
「汐月、今はゆっくり休みなさい。夜になったら、お母さんと一緒にある人に会いに行くから」
誰に会うか、彼女は言わなかった。だが汐月には分かっていた。清水晟暉だろう。
ネットのニュースで、彼が交通事故で再起不能になったことは知っていた。
笑うべきか、悲しむべきか。結局、いわゆる両親というものに期待するべきではなかったのだ。
親に愛されない子供の心に宿るのは、どうにもならない無力な悔しさと、諦めだけ。
「わかった」 汐月は頷いて応じた。
ただし、彼女が頷いたのは奈美のためではない。汐月が北央市に来たのは、すべて清水晟暉のためだった。
彼は今、どうしているのだろう。
汐月が素直に聞き入れたのを見て、奈美は満足げな表情になった。「ええ、じゃあ休んでなさい。お母さんは邪魔しないから」
去り際に、彼女は念を押すことを忘れなかった。「夜に会う人に大学のことを聞かれたら、景原医科大学の修士課程だって言うのよ。バレたりしないから、お母さんがうまくやっとくから」
奈美が去った後、汐月はベッドに横たわった。ふと腕を上げると、右手が震えているのがはっきりと分かった。
もう六日になる。
メスを握りながら、祖母を救えなかったあの瞬間から、この手の震えは止まっていない。
外科医にとって、メスを握る手が震えるのは致命的だ。
考え事が多すぎて、汐月はいつしか奇妙な悪夢に引きずり込まれていた。
一方、優桜はソファに寝そべり、グループチャットで皆が「お姉さん、綺麗なの?」と尋ねるのを見て、胸が少しつかえた。
(綺麗だけじゃなく、驚くほど美しい……)
汐月の服装はごく普通だったが、その顔立ちは、冷たくも美しく、嫌でも目を引いた。
肌も、田舎で育ったとは思えないほど、驚くほど白い。
汐月と比べれば、自分はただの「清純で可愛い」という評価に収まってしまう。
追及する人が多すぎて、優桜は複雑な気持ちになり、面白くない気分で返信した。「普通。ブスじゃない、って感じ」
すぐにバレる嘘だと分かっていながら、彼女は無意識にそう口にしていた。
清水家と竹内家の縁談は、北央市では知らぬ者がいないほどの話題だった。
街の裕福な若者たちは好奇心でいっぱいだった。かつて、あれほどの「天の寵児」であった清水晟暉が、一体どんな女性を娶るのかと。
優桜が「ブスじゃない」と評したのを見て、チャットは一瞬静まり返った。
うーん……普通、そんな言い方をする時は、大して綺麗じゃないか、そもそも綺麗とは言えない場合がほとんどだ。
清水晟暉、マジで可哀想……
そのグループには、晟暉の実弟である清水涼平もいた。
此刻、彼は顔をしかめ、スマホを握りしめて「マジかよ」と吐き捨てると、母親の方を振り返った。 「母さん、兄さんは足が悪いだけだろ……なんで何もかもダメな女と結婚させるんだよ? 竹内優桜が言うには、そいつの姉さん、めちゃくちゃブスらしいぞ」
清水夫人はその言葉を聞き、悲しみが胸に広がった。彼女とて、息子に良い伴侶を見つけてやりたくないわけではなかった。
しかし、息子は足だけでなく、男性としての機能にも深刻な問題を抱えている。清水家の当主の妻として、家に不利益な噂が広まるのを放置するわけにはいかない。
だからこそ、最も御しやすい竹内家の長女を選ぶしかなかったのだ。
「大人のやることに、子供が口を挟む余地はありません」彼女はわざと冷たく言い放った。
涼平は怒りで顔を歪めた。
しかし、清水夫人は息子の心情を気にかける余裕もなく、落ち着いた足取りで二階へと向かった。
先ほど、竹内奈美から「今夜、二人の子供を会わせたい」というメッセージが届いていたのだ。
息子の部屋のドアを開けると、清水夫人は薄暗い部屋を見渡し、平静を装って窓辺へ歩み寄り、カーテンを引き開けた。
眩しい光が部屋に差し込み、室内の陰鬱さを追い払う。
ベッドに横たわる男。その漆黒の瞳は古井戸の淵のように深く、整った顔立ちは硬質で鋭く、強烈な存在感を放っていた。
彼は眠ってはいなかった。
清水夫人は単刀直入に切り出した。「お見合いをセッティングしました。今夜、私と一緒にお相手に会いに行きなさい。あなたに拒否権はありません」
「どうせ断れないのなら、見合いなど何の意味がある? そのまま籍を入れればいい」 晟暉は無表情に言った。
清水夫人は息子に対し、不憫に思う気持ちが大半を占めるが、言いようのない恨みもわずかにあった。
あの交通事故が息子の健康だけでなく、夫の命まで奪ったことを、世間の誰も知らない。
息子がこの状態では、夫の死を公表することなど到底できない。さもなければ、社内の多くの者が動揺し、不穏な動きを見せるだろう。
「反対しないのなら結構です。ですが、礼儀として、一度は相手に会わなければなりません」
清水夫人が去った後、晟暉は再び闇に沈んだかのように見えた。その黒い瞳に、苦痛と自嘲の色が浮かぶ。
もし自分のせいでなければ、父は死ななかった。
汐月が目を覚ましたのは、夕暮れ時だった。優桜が彼女を呼びに来た。
どのような心理からか、彼女は言った。「お姉さん、もうすぐ清水家に嫁げるんだね。おめでとう。清水家って、北央市でもトップクラスの豪門なんだよ」
汐月はもう25歳で、海外で長年学んだ経験もある。優桜の子供じみた魂胆など、彼女にはお見通しだった。
優桜が自分を好いていないことは、一目見れば分かる。
彼女は布団を畳みながら、妹が次に何を言うか待っていた。
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