
天才外科医、記憶喪失の婚約者を治療中。
章 3
案の定、汐月が黙っていると、優桜は続けた。「でも、清水家は名門だけど、清水晟暉さんはもう再起不能なんでしょ?それに、両脚が麻痺した人って、あっちの方も問題があるって噂だよ。お姉さん、私はお姉さんにそんなところに嫁いでほしくないな。それじゃ、生きながら後家になるようなものじゃない?」
汐月のことを心配しているように見せかけて、実際には、優桜は彼女が清水家に嫁ぐのが面白くないだけだ。
たとえ清水晟暉の体に問題があろうと、彼はかつて優桜が心惹かれた相手だった。
それに、もし本当に汐月が清水家に嫁げば、自分の暮らし向きをいずれ追い越されることを意味する。
汐月は妹の浅はかな魂胆を見抜き、はっきりと言った。「あなたが私のことを好きじゃないのは構わない。心配するふりなんてしなくていいわ。だって……」
そこで汐月は一拍置き、優桜が驚いて目を見開くのを見て、続けた。「私も、あなたのこと好きじゃないから」
まさかここまで直接的に自分の偽善を暴かれるとは思わず、優桜はうろたえ、言葉に詰まった。
汐月が部屋を出ていくまで、優桜は呆然としていたが、やがて我に返ると、悔しそうに足を踏み鳴らした。「何よ、偉そうに!ほんと、礼儀知らずなんだから。やっぱり田舎で育った田舎者ね!」
汐月はまだドアのそばにいた。優桜の悪態を聞き、一歩下がって部屋の中へ向き直ると、彼女と視線を合わせて言った。 「お父さんもお母さんも田舎育ちだけど、その『田舎者』っていう評価、本人たちに伝えてあげようか?」
優桜は呆然と汐月を見つめた。その冷たい瞳に見据えられ、自分の考えがすべて見透かされているように感じた。
優桜は、ますます汐月のことが嫌いになった。
だが、今回は反論もできず、ぷいっと顔を背けて腹立たしげにその場を去った。
汐月は優桜に軽く言い返しただけだったが、妹が階下に降りていくやいなや、今度は母の奈美が上がってきた。
その顔色は、見るからに不機嫌だった。
優桜が告げ口をしたのだろう、と汐月は察した。姉にいじめられた、とでも言ったに違いない。
「優桜に何を言ったの?」 奈美は詰問するような口調で汐月に尋ねた。明らかに不満そうだ。来たばかりで妹を泣かせるとは。この長女が、これほど腹黒いとは気づかなかった。
問答無用で決めつけるような口調が、汐月はたまらなく嫌だった。
汐月は唇の端を歪めた。「彼女は、お母さんに何て言ったの?」
「今、私があなたに訊いてるのよ!」
汐月に問い返され、奈美の怒りがわけもなく燃え上がった。やはり田舎で長年過ごしたせいで、すっかりダメになってしまった。礼儀の欠片もない。
「彼女は私のことを『田舎で育った田舎者』だって。だから、お母さんもお父さんも田舎育ちだから、彼女の理屈だと二人も田舎者になるって言ってあげただけ」
「嘘おっしゃい!優桜がそんな失礼なことを言うはずないわ!」 奈美は激昂した。「妹を泣かせるだけじゃなく、嘘までつくようになったのね。大した成長じゃない、竹内汐月」
汐月は滑稽だと思った。問い詰めてきたから答えてやれば、今度は信じない。
どうやら、自分が聞きたい答えしか聞く気がないらしい。
だが、汐月は決してやられっぱなしになるような性格ではない。人を怒らせる腕もまた、一流だった。
奈美が信じないなら、と彼女は言い放った。「私が嘘をついてると思うなら、それで結構です。どうせお母さんは優桜しか信じないんでしょうから。でも、謝る気はありません。そんなに私が気に入らないなら、今すぐ田舎に帰ります。優桜を清水晟暉に嫁がせればいいじゃない」
彼女は奈美の目的を知っていた。だからこそ、ためらわずにそれを突きつけ、母の口を封じた。
「あなた……!」
案の定、奈美は激しく動揺した。だが、汐月を北央市に連れ帰った目的を思い出し、腹の底で煮えくり返る怒りをどうにか抑え込んだ。
どうしても理解できなかった。同じ自分から生まれた娘なのに、どうしてこれほど違うのか。
優桜は優秀で、気立てもよく、いつも甘えてきては人の心を和ませる。
対して汐月は、出来が悪い上に、融通が利かず嘘つきだ。やはり手元で育てなかったせいか、まったく懐いてこない。
「さっさと準備して。これから人に会いに行くわよ。それと、その服は着替えなさい。佐々木さんに代わりの服を持ってこさせるから」
汐月が北央市に来ることに同意したのは、この過剰に偏愛する両親のためでは決してなかった。
ニュースを見た瞬間、汐月はあの写真の人物が清水晟暉だと気づいたのだ。
自分を派手に飾るのはごめんだ。
だから、階下に降りた時も、彼女は自分の服を着たままでいた。
階下で待っていた奈美は、その姿を見るなり、不満を露わにした。「どうして着替えてないの?」
「着替えたくないから」汐月は気だるそうに答えた。
「あなたねぇ……!」
奈美は、汐月が自分の想像以上に素直でなく、一筋縄ではいかないことに、今更ながら気づいた。
しかし、今は何よりも彼女と清水晟暉の結婚を確定させることが最優先だ。
「……わかったわよ。着替えたくないならそれでいいわ。行きましょう」
……
北央市の富裕層の子弟が集まるグループチャットでは、清水涼平がなおも竹内優桜に問いかけていた。 「なあ優桜、あんたの姉さんの仕事って何なの?」
同じグループにいるとはいえ、優桜の家の格では、普段、清水家の御曹司である涼平と話す機会などまずない。
彼の方から話しかけてきたのを見て、優桜の心は一瞬にして色めき立った。
涼平の機嫌を損ねまいと、彼女はすぐさま返信した。 「母の話だと、小さな田舎町でお医者さんをしてるみたい」
医者?
医者なら、兄の世話も上手くできるかもしれない。涼平は、彼女が不美人だという事実を、どうにか飲み込んだ。
母は、汐月が景原医科大学の修士課程を卒業したと、世間を欺くつもりでいた。
優桜は死に物狂いで勉強してようやく景原医科大学に合格し、周囲からの称賛を勝ち取ったのだ。
竹内汐月が何の苦労もせず、自分と同じ名誉を手に入れるなど、断じて許せなかった。
優桜はそんな腹黒い思いを隠し、何気ないふりを装って書き込んだ。「でも、姉は大学受験してないし、大学も行ってないの。たぶん、町のお医者さんに見よう見まねで教えてもらっただけだと思うな」
「はあ!?大学も出てないのかよ!」
途端に、汐月の「医者」という肩書きの信憑性が、一気に胡散臭いものになった。
涼平は気分が滅入り、激しい不快感を覚えた。
兄はイェール大学を卒業したエリートだ。不器用な女を娶るだけでも我慢ならないのに、その上、学もないとは……
とうとう我慢できなくなり、涼平は兄にメッセージを送った。 「兄さん、あの竹内汐月って女と結婚するの、やめろよ! あいつは兄さんに釣り合わない。妹の話じゃ、大学も出てないし、ブスな上に教養もないんだって!」
その頃、清水晟暉はすでに『香雅レストラン』の個室で待っていた。
そこは、美しい庭園を望む、快適で落ち着いた空間だった。
しかし残念ながら、晟暉も、そして清水夫人も、窓外の景色を愛でるような心境ではなかった。
清水夫人にとって、この顔合わせはただの取り引きに過ぎない。
そして晟暉にとっては、自らの無力さを改めて見せつけられるための場でしかなかった。
スマートフォンの通知音に、晟暉は弟から送られてきたメッセージを一瞥した。
その端正な顔には、何の感情も浮かんでいない。
清水夫人も、涼平からのメッセージを目にしていた。
彼女はそっと目を閉じ、言った。「晟暉、母さんを恨まないで。他に方法がなかったのよ」
息子が結婚し、密かに養子を迎え入れて実子と偽りさえすれば、彼の身体に関する世間の下世話な噂も、いずれ立ち消えになるはずだ。
晟暉は唇の端に自嘲の笑みを浮かべた。
彼に、母を恨む資格などない。
母から夫を奪ったのは、自分なのだから。
それでも、晟暉は涼平に一言だけ返信した。 「言葉に気をつけろ」
それを見た涼平は、怒りで頭に血が上った。
こんな状況だというのに、まだ礼儀に気をつけろ、だと?兄さんは一体、どこまで呑気なんだ!
一方、汐月と奈美は『香雅レストラン』に到着していた。
汐月は背が高く足も長い。スニーカーを履いている彼女に、ハイヒール姿の奈美は小走りでなければ追いつけなかった。
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