
52回の約束、砕かれた愛の終焉
章 2
榊原春奈 POV:
砕け散ったケーキの残骸と, シンと静まり返った店の中で, 瑞貴が駆け寄ってきてくれた.
「春奈! どうしたの, 一体! 」
彼女の声は震えていた. 私の両親も, 呆然とした顔で私を見つめている.
「もう, 無理だから. 」私の声は, 自分自身でも驚くほど平坦だった.
「春奈, もういい. 私たちと一緒に東京に戻りましょう. 」
父が静かに言った. 彼の声は優しく, しかし有無を言わさぬ響きがあった.
私は疲弊しきった体で, ゆっくりとカウンターの椅子に座り込んだ. 父と母の視線が, 私に重くのしかかる. 彼らがこの提案をするのは, これが初めてではない. 私が一清と出会ってから, 何度となく, 彼らは私に帰省を促してきた. しかし, そのたびに私は首を横に振り, この街に留まることを選んだ.
私は榊原春奈. 日本最大手の製菓グループ「サカキバラ・フーズ」の令嬢だ. 本来なら, 実家のある東京で, 父の会社の経営を学ぶか, あるいは自分のパティシエとしての腕を磨き, いつかはグループの一員となる道を選んでいたはずだ. しかし, 私は一清のために, その全てを捨ててこの地方都市にやってきた.
彼は, 裕福な家庭で育った人間を嫌っていた. 田舎出身であることに強いコンプレックスを抱き, 自身の努力と実力だけで成功することを望んでいた. だから, 私は自分の出自を隠した. 彼に私の背景を知られたら, きっと彼は私を嫌い, 受け入れてくれないだろうと恐れたのだ.
この5年間, 私は偽りの自分を演じ続けた. 彼の前では, 実家暮らしの平凡なパティシエ見習いとして振る舞い, 裕福な家の娘であることを悟られないよう細心の注意を払った. 彼は, 私を自分と同じような「苦労人」だと信じていたはずだ.
私はこの5年間, 見習いから, 店の共同経営者, そしてこの街では「新進気鋭のパティシエ」と呼ばれるまでになった. 一清と二人で, 幾度となく困難を乗り越え, この店をここまで育て上げた. 彼と私の才能が合わされば, どんな夢でも叶えられると信じていた. 私たちは, この街のグルメ雑誌で「最高のコンビネーション」と称賛されたこともあった.
いつか, 店が軌道に乗って, 彼が自信を持てたら. その時こそ, 本当の私を打ち明けて, 彼に受け入れてもらおうと思っていた. その日を夢見て, 私は耐え, 努力し続けてきた.
しかし, その機会は永遠に失われた. もはや, 彼に真実を語る必要など, どこにもない.
「ええ, お父様, お母様. 私, そちらに戻ります. 」
私の言葉に, 父と母の顔に安堵の表情が広がる. 彼らはこれまで見せてこなかった喜びを隠しきれないようだった.
「すぐに手配しましょう. 春奈, よく頑張ったわね. 」
母が私の手を握り, 温かい眼差しで私を見つめた. その温かさが, 私の凍りついた心に少しだけ染み渡る.
家に帰った. 一清はまだ帰っていなかった. 静まり返った部屋は, 私の心と同じくらい空虚だった. 私は適当に冷蔵庫からサンドイッチを取り出し, 一口かじった. 味はしなかった.
スマートフォンを手に取ると, 結愛のSNSが目に飛び込んできた. 彼女は, 一清に抱きかかえられ, 病院で手当てを受ける自分の写真を投稿していた.
「一清さん, 心配してくれてありがとう. 優しい一清さんがいてくれて, 本当に良かった. 」
そんなコメントが添えられていた. その隣には, 一清が結愛の頭を優しく撫でる姿が写っている. まるで, 私が彼と過ごした5年間が, 全て嘘だったかのように.
胃の奥から何かがこみ上げてくる. 吐き気を抑えながら, 私は画面を閉じた.
ああ, 今夜も彼は帰ってこないだろう. どこかのホテルで, 優しい結愛を慰めているのかもしれない.
彼と正式に結婚する前に, この関係が終わって本当に良かった. もう, 彼のために無理に笑顔を作る必要はない. 心底からそう思った.
翌朝, 私は荷物をまとめ, 会社に辞表を提出しに行った.
「榊原さん, 本当に辞めるんですか? 今, あなたがいないと店が回らないですよ. 」
店長が引き留める. 彼は私の才能を評価してくれていた.
その時, 扉が開き, 一清が入ってきた. 彼の髪は乱れ, 顔には疲労の色が濃い. しかし, 彼のシャツの襟元には, 赤い口紅の跡がついていた. そして, 甘ったるい香水の匂いが, かすかに彼から漂ってくる.
昨夜, 彼は結愛と過ごしたのだろう. その痕跡が, 彼自身の背信を物語っていた. 以前の私なら, 彼が口紅の跡や香水の匂いを嫌がっていたことを思い出していただろう. だが, 今, 私は理解した. 彼が嫌っていたのは, 口紅の跡そのものではなく, その口紅をつけたのが私だった, ということだ.
店長が一清に尋ねた.
「シェフ, 榊原さんが辞めるって言うんですけど, 何かあったんですか? 」
「いえ, 私の個人的な都合です. 一清さんとは関係ありません. 」
私はすぐに割って入った. 一清の眉間に皺が寄る.
「春奈, お前, 辞めるのか? 」
彼の声には, 驚きと, 少しの焦りが混じっていた.
「ええ. 疲れたから, しばらく休みたいんです. 」
冷静に, 嘘をつく. 彼が私の言葉を信じているのか, それとも疑っているのか, その表情から読み取ることはできなかった.
「休むなら, 休暇を取ればいいじゃないか. 辞める必要なんてないだろう. 」
彼の声には, 僅かな苛立ちが含まれていた.
「お前が辞めたら, 結愛の指導はどうするんだ? まだ一人前じゃないのに. 」
彼の目には, 私のことではなく, 結愛のことしかなかった. 彼は私の感情など, 一切考えていない.
私は苦しくなった. もう, 全ての有給休暇を使い果たしていたはずだ. それも, 彼が急な用事で店を空けるたびに, 私が代わりに働いたからだ.
彼が気にするのは, 結愛のことだけ. 私の目には, 口紅の跡が再び映る.
「これは…どうしたんだ? 」彼は私の視線に気づき, 慌てて襟元を隠した.
「ああ, これは昨夜, 結愛が酔っ払って, ちょっと... 」
彼は拙い言い訳を始めた. かつての私なら, 彼の言葉を信じていたかもしれない. 彼の目を真っ直ぐ見つめて, 彼の言葉の裏にある真実を探ろうとしただろう. しかし, もうそんな気力はなかった.
「分かったわ. 信じるわ. 」
私の言葉に, 彼はホッと息をついた.
「春奈は本当に大人になったな. 」
彼は私の頭を軽く撫でた. その手つきは, どこか見下しているようだった.
「今夜は, 埋め合わせに, 一緒に食事でもどうだ? 」
彼は私の顔をまっすぐ見た. 私は何も言わなかった. 彼は私の沈黙を肯定と受け取ったようだ.
「じゃあ, 決まりな. 」
彼は携帯を取り出し, 誰かにメッセージを送っていた. 私は, 彼が今, 結愛に連絡しているのだと察した. 今日, 私が辞職することを, 彼はまだ誰にも, 彼女にさえ伝えていないのだろう.
私は心の中で決意した. もう, 彼に私の本当の計画を教えることはない.
その時, 扉が勢いよく開き, 結愛が飛び込んできた.
「一清さーん! 私の手, まだ痛いんですぅ! 」
彼女は泣き顔で一清に抱きついた. 一清はハッと我に返り, 私から手を離した.
「結愛! どうしたんだ, こんな時間に. 」
彼は結愛の背中を優しく撫で, 私から完全に意識をそらした.
「だって, 一清さんがいなくなっちゃうから... 」
結愛は甘えた声で一清に訴える. 二人は私を置き去りにして, まるで恋人同士のように抱き合っていた.
結愛は私をちらりと見た. その目に, 挑発的な光が宿っているのを私は見逃さなかった.
二人が部屋を出て行った後, 部屋には私の荒い呼吸だけが響いていた. 心臓のあたりが, ギシギシと音を立てる.
その瞬間, 手首で何かが弾ける音がした. 彼が初めてくれた, お揃いのブレスレットだ. 5年前に, 彼が「永遠の愛の証だ」と言ってくれた, あのブレスレット. それが, 音を立てて砕け散った.
その破片が, 床に転がる. 私は痛みをこらえ, 拾い上げた. その欠片は, 過去の私と彼との間に存在した「永遠」という言葉の虚しさを象徴しているようだった.
私はその破片を, そのままゴミ箱に捨てた.
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