
冷徹なアジアの覇王は、傷ついた隠れ令嬢を独占する
章 2
愛した人に裏切られた衝撃の中から、早川寧寧はまだ抜け出せずにいた。電話越しの男が、同じ言葉を二度目に口にして――ようやく意識が現在に引き戻された。
「な……何って、今、何て言いました……?」
受話器の向こうで、男――松村隆一は静かに続けた。『私は君の父親だ。 君の母・早川葵とは、若い頃、互いの初恋相手だった。 だが当時君の爺さん――松村本家の当主が、どうしても私たちの交際を認めてくれなくてな。結局、別れるしかなかった』
低い声が、遠い過去をなぞるように淡々と告げた。『私は知らなかった。 別れを選んだあのとき、葵の腹の中に、すでに命が宿っていたことを。
父が亡くなり、もう誰にも邪魔されないと分かった頃には…… 母娘二人を迎えに行こうとした時には、葵は病で先に逝ってしまっていた』
一瞬、沈黙が落ちる。その沈黙の重さが、どれだけの後悔を含んでいるのか、想像に難くなかった。
『私は、今もあの頃の自分を呪っている。 寧寧。 この数年、私の事業は主に海外で展開しているが、華国国内にもまだ数兆円規模の資産がある。君は、私にとって唯一の娘だ。 その資産は、君が相続しなさい。 これは……葵と、君への、せめてもの償いだと思ってくれ』
プツン、と通話が切れる音がしたあとも、しばらくの間、寧寧はスマホを耳に当てたまま動けなかった。
(私が、華国一の大富豪の娘……?)現実味のない言葉を、頭の中で何度も反芻した。
そうだ、そう言えば。。母が亡くなる少し前、握った手を決して離そうとせずに、何度も言っていた。――本当は、あなたはもっと良い人生を送れる子なのよ。――自分のものは、自分でしっかり掴みなさい。絶対に手放しちゃダメ。
あのときは、ただの励ましだと思っていた。けれど今なら分かる。あれは、母なりの“遺言”だったのだ。
ぼんやりと曇っていた視界に、ふっとピントが合った。(私は……もっといい人生を生きるべきなんだ)母が望んだとおりに。川村真佑なんていうクズ男の裏切りに、いつまでも囚われている場合じゃない
翌朝。寧寧は身分証明の書類を手に、松村隆一の指定した弁護士事務所を訪れた。重厚な応接室で待っていた弁護士に、書類を渡した。
しかし、書類を確認していた弁護士が、途中で眉をひそめた。「早川さん。失礼ですが……」「はい?」
「当事務所のシステムで確認したところ、あなたは“既婚”という登録になっています。 このまま資産移譲の手続きをしますと、その資産は法律上、ご夫婦の“共有財産”扱いになります。 もしその点でご懸念があるようでしたら、ご主人に“財産放棄同意書”へ署名をいただく必要があります」
「……え?」頭が真っ白になった。――既婚?
川村真佑と交わしたあの婚姻届は、“偽物”のはずだ。そう、本人の口からそう聞かされてきた。それなのに、どうしてシステム上では既婚者になっている?
喉がカラカラに乾き、声がかすれた。
「せ、先生……ひとつ、確認してもいいですか」
「どうぞ」
「私の……私の“夫”が、誰になっているのか、調べてもらえますか?」
弁護士は、露骨には表情を変えなかったものの、どこか奇妙なものを見るような目をした。――自分の夫を、本人が知らない?
それでも、仕事として淡々と端末を操作し、照会をかけた。
数秒後、画面を見ていた弁護士が顔を上げた。「早川さん。システム上の配偶者欄には――」コン、とEnterキーを叩く音を伴い、名前が告げられた。「星野拓海さん、とあります」
星野……拓海。どこかで聞いたような、その名前。けれど顔はまったく浮かんでこない。
(星野……誰?私、そんな人と結婚した覚えなんて……)
戸惑いの波が、何度も胸の中を押し寄せては引いていく。――(とにかく家に戻ったら、この人が一体何者なのか徹底的に調べる。そして絶対に“財産放棄”の同意書にサインさせる)
顔も知らない男に、自分の財産を持っていかれてたまるものか。
そう心に決め、寧寧は立ち上がった。ちょうどその時。けたたましい着信音が、静かな応接室に響き渡った。
スマホを見ると、表示されたのは「院長・内山」の文字。
『早川先生!すぐ病院へ戻ってくれ!』電話に出た途端、切羽詰まった声が飛び込んでくる。『下のクラスの病院から、重要な患者が緊急搬送されてきた。脳幹の海綿状血管腫だ。このケースを救えるのは、君の“ペプチド模倣融合術”だけなんだ!』
「……っ」心臓がどくんと高鳴る。
病院の中で、彼女が世界的に名高い医科の鬼才「夜寐」であることを知っているのは、院長・内山清一郎ただ一人。
多ペプチド模倣融合術は、「夜寐」が編み出した秘術。本来なら、その名も技術も、徹底的に隠し通すはずのものだ。
だからこそ、内山はいつも、寧寧の正体を守るように立ち回ってくれていた。院内で彼女に執刀させるなんて、本来ならあり得ない。それでも、今日に限ってこうして電話をかけてきた。しかも「君にしか救えない」とまで言う。――つまり、それだけこの患者が“重要”だということ。
「すぐ戻ります」通話を切ると同時に、寧寧は弁護士事務所を飛び出し、タクシーを拾って華清総合病院へ向かった。
病院に到着すると、すでに救急のスタッフが慌ただしく動いている。「早川先生!」内山がすぐに駆け寄ってきた。「今回の患者さんは、海外から帰国した重要人物だ。アジア一の大富豪直系の御曹司だぞ。何としても、彼の命を助けてくれ!」
「了解しました」寧寧はキャップとマスクを装着し、淡々と頷く。消毒を済ませると、そのまま一直線に手術室へ向かった。
中に入ると、手術台の上に若い男が横たわっているのが目に入る。
その顔を見た瞬間、寧寧は息を呑んだ。
手術室のライトが月光のように青白く男の顔を照らし出し、どこか現実離れした妖しい美しさを帯びさせている。
完璧な彫刻のような顔立ち。意識を失い、手術のために髪を丸刈りにしていても、それでも艶やかな美しさが際立っていた。――きれい……
医者にとって、患者の顔立ちなど関係ない。自分の仕事は、命を救うこと。それだけだ。
寧寧は表情を引き締め、メスを手に取った。「手術、開始します」
頭皮にそっと刃を入れ、切開していく。脳幹部の海綿状血管腫――一歩間違えれば、その瞬間に命が尽きる。ミリ単位での判断が求められる、極めて繊細な手術だ。
顕微鏡越しの視界だけに集中し、多ペプチド模倣融合術の手順を、ひとつも間違えないようになぞっていく。
時間の感覚は、すっかり失われていた。額を伝った汗が、マスクの縁からぽたぽたと落ちる。
どれほど経っただろうか。手術室のランプが、赤から青へ切り替わった。
外で落ち着かない様子で行ったり来たりしていた内山が、ドアが開くなり、弾かれたように駆け寄ってきた。「早川先生! 手術の結果は?」
寧寧はマスクを外し、少し息を整えてから答える。「――成功です。 出血もコントロールできましたし、後遺症のリスクも最低限に抑えられたと思います。 患者さんは、そう時間を置かずに目を覚ますでしょう」
「そうか……それは本当によかった……!」内山は大きく息を吐き、胸を撫で下ろした。「もしこの星野家のご子息に何かあったら、 星野会長にどう説明すればいいか分からなかったところだ」
「星野……?」その名字を聞いた瞬間、寧寧の眉がぴくりと動いた。「院長、患者さんのフルネームは?」
「ん? ああ、星野拓海だよ。 アジア一の大富豪・星野家の後継者なのは有名な話だろう? 知らなかったのか?」
名前を聞いた瞬間、視界がぐらりと揺れた気がした。星野拓海。――さっき、弁護士が端末から読み上げた名前。『あなたの夫の名前は、星野拓海さんです』その言葉が、鮮やかに蘇る。
「……っ」寧寧の瞳が、大きく見開かれた。まさか、自分が救った患者は――法律上の夫だったなんて。
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