
社長の素顔は、私の“夫”でした
章 3
ふたりが広報部に到着すると、蒼井嵐が控えめな笑みを浮かべながら同僚たちに紹介した。「こちら、新しく入った同僚の霧島夢さんです」
それに応えるように、霧島夢は簡潔な自己紹介をした。声の調子は淡々としているが、言葉は丁寧だった。「ご一緒できて嬉しいです。これから、どうぞよろしくお願いします」
彼女の迅速な入社に、社員たちは明らかに驚いた様子でざわつき始めた。
「この人が、海外支社から来たっていう宮崎社長の個人広報? 確かに綺麗な人ではあるけど、実力のほどはどうなのかしらね」
「でも、あの宮崎社長が選ぶくらいだし、ただ者じゃないはずよ」
「羨ましいよね、毎日あの顔を間近で見られるなんて。仕事の疲れも吹き飛びそう」
そのざわめきは、一語一句漏らさず霧島夢の耳に届いていた。だが、彼女は微笑を浮かべたまま、何も言わなかった。
けれど、蒼井嵐の顔色の方がみるみるうちに曇っていく。その視線には、不快と苛立ちが色濃く滲んでいた。
――やっぱり気に食わない。
宮崎蒼の面接は、いつだって厳しい。それなのに、ほんの二言交わしただけで、彼女を採用だなんて…。
見た目だけ取り繕って何の意味があるというのか。
蒼井嵐は、霧島夢にもこの会社の裏にある苦労を味わわせてやろうと決めた。
しばらく考えた後、彼女は一番やっかいなクライアントを夢に押しつけることにした。
「宮崎社長が、まずはこれを任せて様子を見ようって。今、みんなの手元のプロジェクトはほぼ終わりかけていて、残ってるのは宮崎グループの周年記念パーティーで使うBGMの選定くらいなの」 蒼井嵐はごく自然な口調で言った。「相手とのやり取りはあなたが担当して。BGMを確定させてちょうだい」
霧島夢は眉を寄せ、前のめりに尋ねた。「何か問題でもあるんですか?」
――宴会で使うBGMなんて、一番簡単なセクションのはずだ。それが今になっても決まっていないなんて、怪しい。
だが蒼井嵐は、それ以上語りたいくない。資料一式を夢に放り渡すと、「このあとクライアントが直接来るから。会って話せば、すぐに分かるわよ」
そう言い残すと、蒼井嵐はそのまま自分のデスクに戻っていった。
霧島夢もそれを見て、これ以上は聞いても無駄が察し、黙って頷いた。
資料を手に取った彼女は、そのまま会議室へと足を向ける。
扉が閉まると同時に、オフィスには再びひそひそとした噂話が広がり始めた。
「新人、もう終わったわね。氷見春樹がどれだけ神経質で扱いづらいか、知らない人なんていないでしょ。それに――あの人、女癖も最悪らしいし」
「一秒だけ黙祷してあげよ。…ご愁傷様、頑張ってね」
――
会議室。
霧島夢は手際よく、クライアントの情報をメモしていった。
相手の名前は氷見春樹――ピアニストだ。
今回の宮崎グループ創立三十周年記念晩餐会では、彼のピアノ曲を採用したいと考えていたが、何が原因なのか、どうしても交渉がまとまらないままだった。
霧島夢が資料を読み終えた直後、オフィスの扉が押し開けられた
入ってきたのは、白いカジュアルなシャツを着た男性だった。袖は肘のあたりまで無造作にまくり上げられ、その佇まいにはどこか気だるげな雰囲気が漂っていた。
霧島夢はすぐに立ち上がり、柔らかく微笑んだ。「氷見先生、こんにちは。霧島夢と申します。これから宮崎グループの晩餐会用のBGMについて、私が担当させていただきます」
「うん」 氷見春樹は短く返事をし、霧島夢の隣の椅子を何のためらいもなく引いた。
椅子に深く腰かけると、そのまま彼女をじっと見つめる。瞬きひとつせず、視線を逸らすこともなく――。
霧島夢はそっと視線を伏せ、その目を彼の視線から逃がした。
席に着くと、何気ない動作でわずかに身を横へずらし、慣れた手つきで淡々と切り出した。「氷見先生がなかなかご承諾くださらないのは、やはり今回の提携に何かご懸念がおありなのでしょうか? もしそうでしたら、どうか正直にお聞かせください。可能な限りご希望に沿えるよう、誠心誠意ご対応いたします」
氷見春樹は彼女に一瞥をくれたが、言葉はなく、そのまま黙していた。
霧島夢の胸の奥に、ふと小さな違和感が灯る。けれども、その表情はあくまで穏やかで礼儀正しく保たれていた。「氷見さんが全国ツアーの準備でお忙しいのは承知しています。だからこそ、こちらの誠意をお伝えしたくて。パーティー当日、特別に時間を取ってツアーの宣伝枠をご用意します。それをささやかな贈り物として…… いかがでしょうか?」
氷見春樹はしばし黙考し、ようやく口を開いた。
「霧島さんの提案は……魅力的ですね」 そう言って、微笑を湛えたまま彼女を見やる。
夢は、用意していた契約書を静かに彼の前へ差し出す。「こちらが契約書です。ご確認いただければと思います。もし何かご不明な点があれば、すぐにでも修正いたしますので」
しかし氷見は椅子の背もたれに体を預け、両腕を後頭部に回した。「字が多すぎて、読む気になれないな」
その言葉に、夢は一瞬言葉を詰まらせる。
「そっちに来て、条文を読み上げてくれない?」 霧島夢を見る視線は、興味津々
夢はそっと唇を引き結ぶ。
――この仕事を始めてから、変わった要求なんて山ほど見てきた。
契約書を読むくらい、大したことじゃない。
彼女は静かに身体をずらし、氷見のそばへと寄る。ただし、決して近づきすぎず、きちんと節度ある距離を保ったまま。そして、一言一句漏らさずに契約書の条文を読み上げていく。
けれど、どうしても意識してしまう。熱を帯びた視線が、まるで火傷を起こしそうなほど強く、彼女の全身を這うようにまとわりついてくるのだった。
居心地の悪さに、まるで椅子に針でも仕込まれているかのような感覚に襲われる。
霧島夢は背筋を正すのをやめ、不快感を無理にやり過ごそうとした。
そのとき、不意に氷見春樹が身を乗り出した。
夢は咄嗟に身体を引いた。
氷見は微笑んだ。けれど、引き下がる様子もなく、さらに距離を詰めてくる。
「君がつけてる真珠のネックレス、とても綺麗だね。すごく似合ってる……」
そう言いながら、彼は夢の首元に手を伸ばした。
夢は眉をひそめ、その手を避けた。胸の奥に広がる嫌悪感は、もはや無視できないほどだった。
「氷見さんがそのネックレスを気に入ったのなら、後ほど会社に同じものをお送りします。今は契約の話を続けましょうか」
氷見春樹の手が宙で止まり、鼻先で笑った。「宮崎グループには、どうやら本気で組む気はなさそうだね。そうなると――話す意味もないか」
まるで霧島夢を手玉に取ったような顔で、彼は片眉を上げて彼女を見下ろす。その視線には、かすかな脅しの色さえにじんでいた。
そのとき――。オフィスの扉が再び開き、低く落ち着いた声が響いた。
「契約は白紙だ」
宮崎蒼が無表情のまま氷見春樹の前まで歩み寄り、霧島夢をその背後へとかばうように立った。
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