
その日、ウェディングドレスを着たのは彼女だった
章 3
おそらく、さっきの言葉が聞こえていたのだろう。瀧ノ上瑞貴の表情は冴えなかったが、柳瀬薫だけは無邪気な笑みを浮かべ、私の目の前に歩み寄ってきた。「江原さん、知ってます? 昨日の夜、瀧ノ上社長が私を接待に連れて行ってくれたんです。あんなに美味しそうなもの、初めて見ました」
「でもいちばん美味しかったのは、やっぱり瀧ノ上社長が特別に頼んでくれた、ミルク風味のれん乳まんじゅう。『子どもはこういうのが好きだろ』って言ってくれたんですよ」
甘ったるい果実の香りが狭い室内に充満し、私は思わず鼻を押さえて咳き込んだ。無視を決め込んでいると、傍らの秘書が口を開いた。「ここは会社です。江原社長とお呼びするのが礼儀でしょう。それくらい、常識ですよね?」
ただの事務的な注意に過ぎなかったはずなのに、柳瀬薫の目にあっという間に涙がにじむ。彼女は小さく身を縮め、瀧ノ上瑞貴の背後に隠れた。今にも泣き出しそうな顔で、口をつぐんでいる。
瀧ノ上瑞貴は彼女の頭を優しく撫でて宥めながら、冷えきった眼差しを私に向けた。 「……自分の部下くらい、ちゃんと管理しろ。ここは会社だ。私情をぶつける場所じゃない」
柳瀬薫は一瞬浮かべた得意げな笑みをすぐに引っ込め、瀧ノ上瑞貴の腕にそっと手を添えた。「瀧ノ上社長、悪いのは私です。どうか江原社長を責めないでください……」
彼女の健気な振る舞いに、瀧ノ上瑞貴はなおも秘書に何か言おうとしたが、その前に私が彼女の手を取ってエレベーターから引きずり出した。
「江原瑶子、まだ話は終わってない!」
背後から呼び止める声に、私は静かに深く息を吸い、振り返って彼を見据えた。「江原瑶子……ですって? さっき自分が何を言ったか、もう忘れたの? 私の名前を気軽に呼び捨てにする資格が、あなたにあるとでも? 瀧ノ上副社長」
瀧ノ上瑞貴の呼吸が止まった。その瞬間、まるで目の前の私がまったく知らない人間にでもなったように、戸惑いを浮かべた。
無意識に手を伸ばしてきた彼が口を開く。「瑶子、俺はそんなつもりじゃ――」
ピシャッ。乾いた音が静寂を裂いた。瀧ノ上瑞貴の手は中空で止まり、手の甲にはじわりと赤みが差していた。
集まった社員の視線が次第に熱を帯びる中、それでも江原瑶子はもう一切の遠慮を捨てた。「瀧ノ上社長。私はあなたを高い報酬で迎え入れた。それは社内で恋愛を楽しむためではない。
公私のけじめもつけられないようなら、あなたの能力が今のポジションにふさわしいのか、考え直さざるを得ないわ」
場内の空気が一瞬で凍りつく。誰もが息を呑んだそのとき、柳瀬薫が突然叫び声を上げた。彼女は瀧ノ上瑞貴の手を自分の胸元でそっとさすりながら、震える声で訴えた。「瀧ノ上社長、大丈夫ですか?痛みますか? ごめんなさい、全部私のせいです。私が江原社長を怒らせてしまったから……」
そう言って柳瀬薫は、くるりと身を翻し、江原瑶子の目の前にまっすぐひざまずいた。涙に濡れた顔を上げ、懇願するように叫ぶ。
「江原社長、私は世間知らずで、社内の駆け引きも何もわかりません。もし失礼なことを言っていたのなら、どうか私に怒りをぶつけてください。叩いても、罵っても構いません。 でも、お願いです。瀧ノ上社長をこんなふうに責めないでください。あの方は……とても優しい人なんです。私の……好きな……」
その先の言葉は途切れた。だが、誰の耳にも――その想いは、はっきりと届いていた。
瀧ノ上瑞貴は夢から覚めたような顔で、こちらを見たかと思えば、足元で泣き崩れる柳瀬薫に視線を落とした。
彼女を抱きかかえると、周囲の目も憚らず、ひと言ずつ区切って言った。「申し訳ありません、江原社長。うちの者がご迷惑をおかけしました。次回からは気をつけます」
背を向けて立ち去る瀧ノ上瑞貴の姿に、胸の奥がじわりと痛んだ。
オフィスのドアが閉まった瞬間、我慢していた涙が、何の前触れもなく溢れ出す。
……まあ、いい。七年前の江原瑶子のために泣いておくことにしよう。
業界のサミットにはひとりで出席した。数杯の酒が喉を通った頃、瀧ノ上瑞貴が柳瀬薫を伴って会場の入口に姿を現した。
先日の婚約披露宴の騒動がまだ尾を引いていて、普段親しくしていた取引先たちも、私をどう呼べばいいのか迷っているようだった。
私は彼の正面に立ち、発言用の原稿を差し出した。表情はあくまで平静だった。
本来、今夜の製品紹介は彼――瀧ノ上瑞貴が担当するはずだった。彼が手を伸ばすより早く、柳瀬薫がそれをさっと横取りした。「これが紹介用の資料?ふうん、大したことなさそうね」
「瑞貴お兄……あ、瀧ノ上社長。ねえ、私にもやらせてくれない?」
彼女の言う「やらせて」はどういう意味か、私はよくわかっていた。咄嗟に口を挟む。「初回の発表は極めて重要なの。製品の性能すら……」
「構わない」
瀧ノ上瑞貴が腕を伸ばし、私と柳瀬薫の間に割って入った。彼の目は冷ややかに私を見据えていた。「これは俺の担当だ。柳瀬薫は俺の秘書、代わりに話すのは当然のことだろう」
唇を噛み締めながら瀧ノ上瑞貴を見つめた。この製品は、私がチームを率いて三年近く奔走し、ようやく形にしたものだった。瀧ノ上瑞貴にとって、それが私にとってどれほど大切なものか知らないはずがない。
「江原瑶子、彼女には経験を積む機会が必要なんだ。君のように、すべてが恵まれているわけじゃない」
瀧ノ上瑞貴の目に宿る迷いのない決意に、言葉を失った。
これまでの道のりで、どれだけの苦労を重ねてきたか――彼は誰よりもわかっているはずなのに。
それでも、反論の隙を与えることなく、司会者が名前を読み上げた。柳瀬薫が、数え切れないほどの記者や業界関係者の視線を浴びながら壇上に上がる。
案の定、彼女のスピーチはひどいものだった。中盤に差しかかる頃には、自分でも続けられなくなったのか、顔を赤らめ、涙を浮かべて瀧ノ上瑞貴を見つめた。「瑞貴お兄ちゃん……」
隣にいた男が唇を固く引き結び、ついに覚悟を決めたように立ち上がった。視線が一瞬だけ私をかすめ、そこにわずかな罪悪感が滲んだ。そして、会場にどよめきが広がる中、彼は壇上へと歩み出た。
柳瀬薫の手元からマイクをすっと奪い取るように、その長い指が差し伸べられる。彼女をそのまま腕の中に引き寄せると、静かに言った。「失礼しました。うちの秘書は市場業務にまだ慣れていなくて。以後の説明は私が務めます」
私は、ただ呆然と見ていた。絡み合ったまま、決して離されることのないふたりの指先を。
瀧ノ上瑞貴のプレゼンは見事だった。終わってもなお、拍手はしばらく鳴り止まなかった。
無数の記者たちが群がるように押し寄せ、カメラを瀧ノ上瑞貴と、その腕の中にいる柳瀬薫に向けた。
「瀧ノ上社長、婚約披露宴で江原社長と決裂したとの噂がありますが、今回の件は"新しい恋人"ということでしょうか?」
「江原社長との間に、修復不可能な亀裂が生じたというのは本当ですか?」
「この女性とのご関係について、詳しくお聞かせください――」
ざわめきが渦巻くなか、瀧ノ上瑞貴の視線が再びこちらへと向けられた。
人々の視線が彼の返答を待ちわびる中で、ただ一人、私は静かに、点灯したばかりのスマートフォンの画面をじっと見つめていた。
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