
元婚約者の叔父と秘密の契約結婚
章 2
鷹司暁は身を屈め、床に落ちたタブレットを拾い上げた。画面を消すと、彼は安紀の蒼白な顔に一瞬だけ視線を留める。
「気にするな」
その声は低く、感情が読み取れなかった。隣で天野潤貴が口笛を吹き、面白そうに安紀を眺めている。暁がそれを鋭い視线で制した。
安紀は居たたまれなくなり、もう一度頭を下げると、逃げるように自分の席へ戻った。心臓が激しく鼓動している。
あの男の視線が背中に突き刺さっているような気がしてならなかった。
その時、スマートフォンのバイブが激しく震えた。
父、高石茂雄からの着信だ。
安紀は躊躇なく通話を拒否した。
続けて継母の由美子、妹の美咲からもかかってくる。全て無視した。
すぐに茂雄からメッセージが届く。
『高石安紀!気でも狂ったか!今すぐ会社に来い!』
怒りに満ちた文面だった。
安紀は冷笑を浮かべると、メッセージを削除し、スマートフォンを機内モードに切り替えた。
ニューヨークにはもう行けない。
経由地のソウルに降り立った彼女はカウンターへ向かい、一番早い東京行きの便に予約を変更した。
搭乗口で安紀は再びあの二人組を見かけた。
暁と潤貴。
まさか同じ便だとは。
「やあ、奇遇だね、お姉さん」
潤貴が気さくに声をかけてきたが、安紀は冷たく会釈を返すだけだった。
機内では安紀の席は暁の斜め前だった。
窓に映る彼の横顔は静かで、何を考えているのか全く分からない。
彼はフライト中、一度も安紀の方を見なかった。
ただ分厚いドイツ語の書類をめくっている。
その姿は近寄りがたいほどに知的で孤高に見えた。
安紀は目を閉じ、脳内で再生されるドライブレコーダーの映像と父の怒声から逃れようともがいた。
胃が締め付けられるように痛む。
羽田空港に到着すると、安紀は二人を振り切るように早足で出口へ向かった。
黒塗りの高級車が既に待ち構えていた。
高石家の車だ。
運転手が硬い表情でドアを開ける。
安紀は深く息を吸い込み、嵐が待つ家へと向かう車に乗り込んだ。
世田谷区にある豪邸のリビングは煌々と明かりが灯っていた。
茂雄、由美子、そして雅彦の腕の中で泣きじゃくる美咲。四人が安紀を待ち構えていた。
安紀が足を踏み入れた瞬間、乾いた音が響いた。茂雄の平手が彼女の頬を打ったのだ。
「この恥知らずが!誰がお前に警察を呼べと言った!」
頬が燃えるように熱い。
だが安紀は背筋を伸ばしたまま、冷ややかに父を見つめた。
由美子が甲高い声で罵る。
「少しは令嬢らしく振る舞えないの?家の恥を警察にまで晒して、高石家の顔に泥を塗る気!?」
美咲が雅彦の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らした。
「お姉様、ごめんなさい。全部私が悪いの……雅彦さんのことは責めないで……」
雅彦は心底失望したという表情で安紀を見た。
「安紀。僕たちの間に問題があったのなら、二人で解決すべきだった。どうしてこんな酷いことをするんだ?」
目の前に並ぶ四つの伪善的な顔。
安紀は吐き気を覚えた。彼女は何も言わず、ただスマートフォンを取り出す。そしてあの動画を再生し、音量を最大にした。
車内で繰り広げられた卑猥な声が豪華なリビングに響き渡る。
美咲と雅彦の顔が見る見るうちに白くなった。茂雄と由美子も気まずさと怒りで表情を凍らせる。
最初に我に返ったのは由美子だった。
「なんて恥知らずな子!こんなもの録画して!」
金切り声を上げ、スマートフォンを奪おうと飛びかかってくる。
茂雄は青筋を立てた顔で冷酷な宣告を下した。
「この話はこれで終わりだ。雅彦君とお前の婚約は破棄する。そして美咲と婚約してもらう」
安紀は信じられない思いで父を見た。これが彼の出した「解決策」だった。
「雅彦君は鷹司家の方だ。我々が敵に回せる相手ではない」
茂雄は続けた。
「こんな醜聞を起こしたお前はもはや彼の婚約者に相応しくない。美咲がお前の代わりを務めるのが最善の策だ」
安紀はようやく理解した。この家で自分はいつでも犠牲にされる駒でしかなかったのだ。体の芯から凍りつくような絶対的な寒気が彼女を襲った。
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