
婚約破棄された没落令嬢、氷の帝王たる冷酷総帥に甘く溺愛される
章 3
金曜日の深夜。窓の外は、急な夕立が地面を叩いている。ガラスを打つ雨音が、静の心に渦巻く焦燥と期待を煽るようだった。
スマートフォンの画面が、不意に光った。健斗からのLINEメッセージ。
「今、仕事が終わった、もう寝るよ、おやすみ、愛してる」
その安っぽい「愛してる」の文字を、静は感情の無い目で見つめた。唇の端が、侮蔑の形に歪む。返信はせず、スマートフォンをサイレントモードに切り替えた。
時計の針が、午前一時を指す。
彫像のようにソファに座り続けていた静の目の前で、ついにその瞬間が訪れた。
真っ暗だった監視画面に、玄関の明かりが差し込み、人影が現れた。
「……来た」
静は背筋を伸ばし、冷たく呟いた。迷うことなく、録画開始のボタンを押す。
画面の中で、健斗と玲奈が、千鳥足で寝室になだれ込んできた。二人とも、互いの衣服を獣のように引き裂き、欲望を隠そうともしない。
静は、その醜い姿を冷たい目で見つめていた。
「……静は、本当に面白みのない女でね、まるで木偶人形だ、やっぱり、俺を理解してくれるのは玲奈、お前だけだよ」
情欲に濡れた健斗の声が、スマートフォンのスピーカーから響く。
その侮辱の言葉を聞いても、静の心に怒りは湧かなかった。ただ、強い吐き気だけが、胃の底からこみ上げてくる。この男に対する、生理的な嫌悪感。
「じゃあ、いつになったらあのお飾りを追い出して、私を佐藤家の奥様にしてくれるの?」
玲奈の甘ったるい声が、健斗に絡みつく。
「決まってるだろう、西園寺の最後の土地を手に入れたら、すぐに捨ててやるさ」
その言葉が、静の中に残っていた、ほんの僅かな未練や感傷を、完全に消し去った。
「……人渣(クズ)」
静は、画面に向かって静かに吐き捨てた。
二人の顔と、決定的な会話がはっきりと録画されていることを確認すると、彼女はそれ以上見るに堪えず、アプリを閉じた。
二十分に及ぶ、破滅的な映像。
それを、三つの異なる暗号化されたクラウドストレージに、それぞれバックアップする。
全ての作業を終え、静は濁った息を深く吐き出した。これで、過去との繋がりは完全に断ち切られた。
彼女は文書作成アプリを開くと、その指が再びキーボードの上で踊り始めた。痛烈で、一切の逃げ道を許さない、婚約破棄の声明文の草稿を、瞬く間に書き上げていく。
翌朝。あくびをしながら寝室から出てきた彩音の目の前のテーブルに、静はバックアップ用のUSBメモリを置いた。
「弾薬は、十分に揃ったわ」
USBメモリを見て目を輝かせた彩音は、一枚の招待状を差し出した。金の箔押しが施された、豪奢なカード。
「今夜、ロイヤルクレストホテルで開かれる佐藤家のパーティー、最高の処刑場じゃない?」
招待状を受け取ると、それは彩音が報道関係者として受け取ったものだった。一般人は、足を踏み入れることすら許されない、上流階級だけの閉ざされた空間。
静は不敵に微笑むと、再びノートパソコンを開いた。ホテルの宴会管理システムに侵入し、招待客リストの末尾に、何食わぬ顔で自分の名前を付け加える。
夕暮れ時。静は、これまでの彼女のイメージを覆すような、深く、攻撃的な赤色のドレスに身を包んだ。大和撫子のような従順な仮面は、もうどこにもない。
一人、タクシーに乗り込み、ロイヤルクレストホテルへと向かう。
窓の外を流れるネオンの光が、彼女の瞳に、刃のような鋭い光を映し出していた。
タクシーが、金色の装飾が施されたホテルのエントランスに停まる。静がドレスの裾を捌きながら車を降りると、夜風が彼女の長い髪を揺らした。
回転ドアに向かおうとした、その時。
一台の黒いマイバッハが、特殊な連番のナンバープレートを誇示するように、彼女のすぐそばに滑り込んできた。
ドアが開き、黒服のSPが数人、素早く降りて黒い傘を広げ、鉄壁の人垣を作る。
静は、思わず足を止めた。
雨に煙るその向こうに、後部座席から降りてくる、長身の男のシルエットが見えた。
男は、黒い杖を手にしている。その姿から放たれる圧倒的な存在感に、周囲の空気が凍り付いたように感じられた。
その瞬間、静の心臓が、奇妙な音を立てて跳ねた。まるで、頂点に君臨する捕食者に、その存在を感知されたかのような、抗いがたい感覚。
男は、彼女の視線に気づいたかのように、僅かに顔をこちらに向けた。しかし、大きな傘の影が、その表情を窺わせない。冷たく、硬質な顎のラインだけが、闇の中に浮かび上がっていた。
ドアマンが、九十度の深いお辞儀で男を迎え入れる。
静は、彼ら一行が通り過ぎるのを、その場で待つしかなかった。
男の背中が、VIP専用の通路へと消えていく。
静は、頭を振って、今の奇妙な圧迫感を振り払った。
そして、視線を正面に戻す。
胸を張り、背筋を伸ばし、彼女は、これから始まる自分の戦場へと、堂々と足を踏み入れた。
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