
捨てたのは私の方なのに。~土下座して縋る傲慢CEOの歪んだ求愛~
章 3
その言葉を口にすれば、心が引き裂かれるような痛みに襲われると思っていた。だが不思議なことに、胸の奥は凪いだ水面のように静かで、さざ波1つ立たなかった。
一族の利益のために縛り付けられたこの結婚は、とっくに終わらせるべきだったのだ。
どれほど未練があろうと、もう手放すべき時なのだ。
颯真の顔から、一瞬だけ表情が固まった。
だが、すぐにいつもの平然とした顔つきに戻る。
「それがお前の考えた新しい手口か?」 彼は落ち着き払った動作で、淡々と服を着ている。
美月が本当に離婚したがっているなどとは、信じていなかった。
2人が結婚して以来、西園寺家と藤原家の提携はより強固なものとなった。今やこの婚姻は2人だけの問題では済まされない。
更には、この潮見市で美月が彼に心酔していることを知らない者などいないのだ。
かつて美月は彼と結婚するため、藤原家の令嬢という立場を利用して圧力をかけ、千夏を海外へ追いやった……。
そこまで考えると、颯真の瞳の奥に宿っていたわずかな情熱の火は、完全に消え失せた。
千夏は、彼にとって決して触れてはならない逆鱗だった。
美月は、何があっても千夏にだけは手を出すべきではなかったのだ。
だからこそこの3年間、彼は美月に対して異常なほど冷淡に振る舞ってきた。たとえ西園寺夫人の座を手に入れても、彼女は何者でもないと悟らせるために。
美月が自分と離婚するなどあり得ないことだと、颯真は高を括っていた。
彼女がただ意地を張っているだけだと思っている。
「美月、わがままに何度も付き合えるほど、俺は忍耐強くない。友紀の件でグループに迷惑をかけたのは俺の不手際だが、その件はもう終わりだ。彼女とは二度と……」
「千夏が戻ってきたのね?」
美月がベッドから身を起こす。
静かに颯真を見据えた。整った顔立ちは青ざめていたが、その瞳の底には渦巻く怒りが潜んでいた。
「千夏を呼び戻した上に、友紀を会社に寄越して私に嫌がらせをさせて、離婚に追い込もうとする……。要するに、私に身を引けってことじゃないの?」
嘲るような笑いが漏れた。「颯真、そんなに偽善ぶらないで」
かつての彼女は自分を欺き続けてきた。献身的に尽くしてさえいれば、いつか彼が心を開くと信じて。
彼の好みに合わせて服装もメイクも変えた。胃の弱い彼のために、令嬢育ちの彼女が料理を学び、毎日胃に優しい粥を炊いた。
だが彼は?遊び歩くだけでなく、かつての想い人とも曖昧な関係を続け、愛人を堂々と家に上げ、さらには妊娠検査の結果まで突きつけて彼女に離婚を迫ったのだ。
(もう限界……)
自分に嘘をつくのも、終わりにしよう。
颯真は彼女を愛してなどいない。
永遠に、愛されることなどないのだ。
その瞬間、長年胸の奥に溜め込んできた感情が溢れ出し、目頭が熱くなる。
あらゆる悔しさと悲しみが複雑に絡み合い、まるで蜘蛛の巣のように彼女を捕らえて、身動きを封じ込めた。
「離婚しましょう、颯真。すべて終わりにしましょう」
彼女は必死に感情を押し殺すと、顔を上げて同じ言葉を繰り返した。
幼い頃の想いも、この3年間追いかけ続けた結婚生活も、すべて、この瞬間に解き放つ。
空気が張り詰める。
颯真が険しい顔で鋭い視線を美月に向けた。
「今日のふざけた騒ぎは、全部千夏のせいか?」
(千夏……。なんて親しげな呼び方)
美月の胸の奥にかすかな苦さが広がったが、それ以上に強くこみ上げてきたのは怒りだった。
「ねえ、素直になったらどうなの? ずっと千夏と結婚したかったんでしょ? 彼女のためにおじい様と喧嘩までして、私を形だけの夫人にしたじゃない。離婚すれば願いが叶うわ」
怒りをぶつけた後、美月は強情なほどに真っ直ぐな視線で、颯真を見つめた。
颯真は一瞬言葉に詰まったが、何かを言いかけたその時、電話の着信音が響いた。画面に表示された名を確認すると、彼は迷うことなく背を向け、電話に出た。
『もしもし、千夏……』
颯真は部屋の外へと歩き去り、その声は次第に遠のいていく。
美月は自嘲気味に笑うと、スマホを取り出し、藤原家の顧問弁護士に電話をかけた。
『もしもし、佐藤先生?離婚協議書の作成をお願いします』
美月は弁護士と離婚について打ち合わせを終えると、静かに電話を切った。
この一歩を踏み出すのはさぞかし難しいことだろうと思っていた。
だが、意外なことに、彼女の心には微かな解放感が広がっていた。
(颯真が戻ってきたら、きちんと話をしよう)
――そう心に決めた。
時は刻一刻と過ぎていく。
彼が戻ってくる気配は一向にない。
美月は何かを悟り、上着を羽織って部屋を出た。
案の定、リビングは気味が悪いほど静まり返っている。
颯真は、すでに出て行っていたのだ。
どこへ向かったのか――聞くまでもない。
千夏のところだ。
この瞬間、美月は自分がピエロに思えた。
こんな状況で、きちんと話そうなどと考えていたなんて。
颯真の目に、彼女の存在など最初から映ってはいなかったのだ。
美月は深く息を吸い込み、乱れた心を落ち着かせようとした。だが、胸の奥からは依然として疼くような痛みが伝わってくる。
颯真のこうした振る舞いには、慣れているはずだ。
それでも心は、繰り返される仕打ちに悲鳴を上げていた。
彼がそのつもりなら、もう顔を立ててやる必要などない。
美月は踵を返し、部屋へと戻った。
30分もかからず、わずかな荷物をまとめ終えた。
クローゼットに並ぶ服は一着も持たない。
彼女の好みではないからだ。
すべては颯真に気に入られたい一心で、買い揃えたものばかりだった。
離婚を決意した今、もう誰かに媚びる必要などどこにもない。
これからは、ただの藤原美月だ。
部屋の入り口に立ち、がらんとした寝室を見渡すと、美月の胸に清々しいほどの解放感が湧き上がった。彼女はそのまま、振り返ることもなくその場を後にした。
「あら、奥様!夕食はどうなさいますか?」
「こんな時間に、どちらへ行かれるのですか!」
中島さんは、先ほど颯真が慌ただしく出て行くのを見送ったばかりだった。それなのに、今度は美月までもが家を出ようとしている。
彼女の瞳には、隠しきれない不安が滲んでいた。
中島さんは颯真に雇われた身だ。
だが、結婚してからは、颯真よりも長く美月に寄り添ってきた。
そんな彼女を、無視するわけにはいかない。
「夕食は結構です」
「今日だけじゃなくて、これからも……。ずっと」
言い終えると、美月はそれ以上立ち止まることなく、車に乗り込んだ。
遠ざかっていく車の後ろ姿とエンジン音を見送りながら、中島さんは何事かを悟ったように、呆然とした面持ちで立ち尽くしていた。
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