
私の正体を知らないのは、愚かな元夫だけ
章 2
渡辺グループのビルを出た途端、梓は親友である井上玲奈からメッセージを受け取った。
「梓、今日は私の誕生日なの。どうせ来ないとは思うけど、一応ね」
「あのクソ野郎、あんたにどんな魔法をかけたの?あんた、彼のために、もう引きこもり同然じゃない」
梓は素早く返信する。
「場所、教えて」
数秒の沈黙の後、スマホがメッセージばっかでブルブル鳴った。
「はあああ!? どういうこと???」
梓は、落ち着き払って打った。
「離婚した」
「マジで!? やっと恋愛脳から卒業できたのね!」
「そこで10分待ってて、秒で迎えに行くから!」
夜八時、
西寧公館。
京市最大のナイトクラブであるここは、どこもかしこも贅沢の限りを尽くした空間が広がり、ボトルを一本開ければ、軽く数百万は飛ぶ。
玲奈は隣に立つ親友の姿に、息を呑んだ。
「これよ、これ!これこそが私の梓だわ!」
今日の梓は、鮮やかな赤のタイトドレスに身を包み、女性らしい柔らかな曲線を、ためらいなく見せている。
大きく波打つウェーブヘアと、燃えるような赤い唇。その姿は、人の魂を奪う妖精のように、蠱惑的で、危ういほど美しかった。
「梓、ちょっと座ってて。最高のシャンパン、持ってきてあげる」玲奈はそう言い残し、バーカウンターの方へ消えた。
「ええ」
梓の美貌は、あまりにも目を引いた。ただ静かに薄暗い照明の下に立つだけで、無数の男たちの視線が彼女一人に突き刺さる。
案の定、金髪の男が、ねっとりとした笑みを浮かべて近づいてきた。
「お姉さん、一人なんて寂しいだろ? 俺と一杯どう?」
少し離れた場所で。
康平は、妹の千夏を連れて公館のフロアに足を踏み入れた。
待ちわびていた詩織が、微笑みながら二人に手を振る。
「康平、千夏ちゃん、こっちよ」
千夏は嬉々として駆け寄った。
「詩織姉、やっと帰ってきたのね! 会いたかったー!」
「私もよ」
詩織はそう答えながらも、その視線は康平にだけ注がれていた。
二人の距離を縮めようと、何か言葉を探したその時、千夏が驚きの声を上げた。
「兄さん、あれって……星野梓じゃない!?」
康平は、その声に視線を向けた。
揺らめく照明の下、蠱惑的なシルエットが、バーカウンターのハイチェアに腰掛けている。スリットの入ったスカートから伸びる長い脚が、見え隠れして、この世のものとは思えぬほど美しい。
その顔に見覚えがなければ、あれが自分の、あの地味で退屈な妻だったとは、到底信じられなかっただろう。
彼女は今、男に絡まれているようで、その表情は氷のように冷たい。
「信じらんない。家ではあんなに真面目ぶってたのに、離婚した途端これだもん」
「まったく、あのメス狐!」
いつも梓を目の敵にしている千夏が、吐き捨てるように罵る。
これまで千夏が梓を侮辱しても気にも留めなかった康平だが、なぜか今は、得体の知れない怒りがこみ上げてきた。
「黙れ。下品な口をきくな」
叱りつけられ、千夏は唇を尖らせた。
詩織はそんな千夏の背中を優しく撫でながら、わざと焚きつけるように言った。
「康平、星野さんがあんなに急に変わったのって、もしかして……
もう新しい男ができた、とか?」
康平は、射殺さんばかりの視線を送るだけで、何も答えなかった。
「お姉さん、なんで無視すんの? 俺がキスでもしなきゃ、口きいてくんない?」
金髪の男は、まだしつこく梓に絡んでいる。
「……消えて」梓は、嫌悪を隠しもせずに眉をひそめた。
「俺はそーいう棘がある子、好きなんだよねぇ。ほら、キスさせろよ!」
男はニヤニヤしながら、その手を梓の胸元へと伸ばした。
「……フン」 梓は冷笑すると、カウンターに置かれていた高級ワインのボトルを掴み、躊躇なく男の頭めがけて振り下ろした。
ボトルは派手な音を立てて砕け散り、男は頭から赤ワインを浴びる。
「っ、このクソが!」
男は顔を拭い、狂犬のように吠えた。「このアマ、よくも俺を殴ったな!」
「俺は西田家の御曹司だぞ! 今日はてめぇを組み敷いて、泣いて許しを乞うまでヤってやらないと、俺の気が済まねぇんだよ!」
フロアにいた客たちが一斉に動きを止め、野次馬根性でこの騒ぎの行方を見守っている。
時を同じくして、三階のVIPルーム。
その大きな窓から、井上柊真は目を細め、階下のショーを面白そうに眺めていた。
「あの西田って男、よく言うぜ。西田家の御曹司、ねぇ」
この京市の上流階級で、真に「御曹司」と呼ばれるに相応しいのは、彼の目の前に座るこの男だけだ。
藤原家の長男にして、藤原コンツェルンの若き支配者――
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