
私の正体を知らないのは、愚かな元夫だけ
章 3
「彰、さっきからあの女をじっと見てるけど。なんだ、お好みの?」
井上柊真が、面白そうに声をかける。藤原は手にしたワイングラスを揺らし、視線は階下の鮮やかな赤を纏うシルエットに注がれたまま、短く答えた。
「ああ。確かに、興味深い」
「へえ、珍しい。あんたが女に目を留めるなんて」柊真は面白そうに眉を上げる。
しかも、確かあれは……妹・玲奈の友人、星野梓だったか。
階下。
例の金髪は完全にキレて、一触即発の空気が漂ってた。
康平は苦々しい表情で座っていたが、不意に立ち上がった。
詩織が驚いて声を上げる。「康平? まさか、彼女を助けに?」
「そうよ、兄さん!正気か?」妹の千夏が噛みつく。 「アレが自分で西田に色目を使ったんでしょ。なんで助ける必要が?」
「どうあれ、あいつは三年間、俺の妻だった。見て見ぬフリはできない」
康平は、自分の行動にもっともらしい理由をつけた。
「でも……!」
千夏が言い募ろうとした、その時。二人の長身の影が、階段を降りてきた。
その場にいた誰もが息を呑む。――藤原彰と、井上柊真。二人の登場に、フロアは水を打ったように静まり返った。
金髪男は二人を見るや否や、さっきまでの威勢はどこへやら、一瞬で顔面蒼白になる。慌てて藤原のもとへ駆け寄った。
「藤原さん!井上さん!まさか、いらっしゃったとは!」
ペコペコと頭を下げ、その表情は卑屈なまでのお世辞笑いだ。
「今日のお代はすべて私が持ちますので! どうか、お二人には心ゆくまでお楽しみいただければと!」
藤原は、そんな男に一瞥もくれず、人垣を越えて梓へと視線を向ける。
一方、井上柊真は、人当たりの良い笑みを浮かべていた。だが、その瞳は一切笑っていない。「おや、西田さん。さっき、俺の友人を口説いてた時は、随分と威勢が良かったようですが?」
「ご、ご友人!?」金髪男は梓を信じられないという顔で振り返り、次の瞬間、その場に土下座した。「申し訳ありません、井上さん! この方が井上さんのご友人だとはつゆ知らず……!どんなに度胸があってもとてもそんな真似は……!」
「この通りです! どうかお許しを! 二度としませんから!」
男が額から血を流すほど頭を打ち付けても、柊真は無感動に眺めていたが、やがて心底鬱陶しそうに手を振った。
「もういい。今日は気分がいいんだ。さっさと消えろ」
「は、はいっ!」
金髪男は、文字通り這うようにして公館から逃げ去った。
彼が消えた直後、玲奈がシャンパンを手に焦った顔で戻ってきた。
「梓、大丈夫!?」
梓は静かに首を振る。「平気」
玲奈はほっと胸を撫で下ろし、兄を振り返った。「お兄ちゃん、助かった。ありがとう」
柊真は妹の髪をくしゃっと撫でる。「お前のダチは、俺のダチだ。水臭いこと言うな」
梓も柊真に向き直り、小さく頭を下げた。「井上さん、ありがとうございました」
「いや。それより、手がワインで汚れただろ。洗っておいで」
「うん」
梓は立ち上がり、洗面所へと向かう。その途中、康平と、彼に寄り添う詩織に出くわした。
詩織は、完璧な笑みを浮かべ、丁寧に手を差し出す。
「星野さん、奇遇ですね」
梓は、何の興味もなさそうに小さく頷いただけだ。この二人と会話する気など毛頭ない。
差し出された詩織の手が、宙で止まる。彼女は、いかにも傷ついた、という表情で康平を見上げた。
「康平、私……何か悪いことしちゃった? 星野さん、怒ってるみたい……」
康平は不機嫌に眉を寄せ、梓を睨んだ。「詩織が挨拶してるだろ。最低限の礼儀も知らないのか?」
梓は、心底馬鹿馬鹿しいという目で彼を見た。「私、彼女と親しくする理由がありました?」
「もういいの、康平。私のために、星野さんと喧嘩しないで」詩織が、殊勝な様子で康平の手を握る。
「……くだらない」
梓はもう関わるのも面倒とばかりに、その場を去ろうとした。
だが、背後から康平の、厚顔無恥な声が突き刺さる。
「俺の気を引きたいのは分かるが、そんな自分を安売りするような真似はよせ」
「俺の心には詩織だけだ。お前がどんな手を使おうと、無駄だ」
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