
当てつけ婚の相手は、正体を隠した世界一の富豪でした
章 3
温かみにあふれていたはずの新居は、今や見る影もなく荒れ果てていた。
その惨状を作り出した“張本人”である菊池星奈は、まだ無事な荷物をスーツケースに詰め込んでおり、部屋を空っぽにする勢いだった。
伊藤直哉は信じられないといった様子で辺りを見回すと、大股で星奈の方へ歩み寄った。
「菊池星奈、お前頭おかしくなったのか? 俺がちょっと留守にしただけで、こんな真似して駄々をこねる気かよ」
彼は大きく息を吸い込み、必死に怒りを抑えているようだったが、容赦ない口調で命じた。「1時間やる。すぐにここを元通りにしろ!」
星奈は慌てる様子もなく手元の荷物をまとめ終えると、冷ややかな目で振り返り、直哉を見据えた。
彼女は呆れたように笑って言った。「伊藤直哉、まさか知らないの? 失ったものは二度と戻らないし、元通りになんてなるはずがないのよ」
直哉は苛立ちを隠さずに眉をひそめた。「一体何が言いたいんだ?」
逆に問い詰めてくるその自信がどこから湧いてくるのか、星奈には理解できなかった。たぶん彼のような人間は、自分が間違っているとは微塵も思わないのだろう。
――いや、違う。 彼の唯一の優しさは、愛する女、遠藤理紗にのみ注がれるのだ。
星奈は無表情のまま直哉を見つめ、全身の力を振り絞るように一言一句、言葉を紡いだ。
「結婚式のあの日、あなたは私のメンツも願いも無視して、私を式場に置き去りにした。あの時、私がどんな気持ちだったかわかる? 伊藤直哉、私の立場になって考えたことはある? あんなに辛い思いをさせられたのに、それでもただの八つ当たりだと思ってるの?」
口にすると、どうしても心の底にある悲しみが引きずり出されてしまう。星奈は思わず目元を赤くしながら、直哉をじっと睨みつけた。
その様子を見て、直哉はふと気まずさを覚えたが、すぐにどうでもいいと思い直した。
長い付き合いの中で、星奈を怒らせたことは一度や二度ではない。大したことではないと思っていたし、実際、星奈はいつも許してくれた。
(昔から彼女は俺の苦労を理解してくれていた。今回も少し機嫌をとれば、たぶんすぐに許してくれるだろう) そう考えた直哉の顔から怒気が消え、余裕のある笑みが浮かんだ。
「星奈、わかったよ。お前が面白くないのはわかるけど、こんな風に騒ぐなよ。見ろよ、新居がめちゃくちゃじゃないか」
直哉は笑みを浮かべ、星奈の華奢な肩に手を置いて、優しくなだめるように言った。
「ほら、もう気も済んだだろ?いい加減にしろって。日を改めて、もっといい日取りを選ぼう。 約束するよ、もっと盛大で豪華な結婚式を挙げてやるから。な?」
星奈は静かに直哉の笑顔を見つめた。口ではそう言っているが、その目は適当にごまかそうとしていて、彼女をコントロールできるという確信に満ちていた。星奈が必ず頷くと高を括っているのだ。
(そうだ、彼は昔からずっとこうだったじゃないか) 星奈は心の中で自嘲した。チャンスを与えすぎたせいで、彼は“誠実に接する必要なんてない”と勘違いしてしまったのだ。
そう思うと、星奈は冷たい表情で肩に置かれた手を払いのけた。 「触らないで。汚らわしい!」
直哉は信じられないといった目で星奈を見た。かつて彼女がこんな態度を取ることなど一度もなかったからだ。
続けて、星奈は冷たく言い放った。「伊藤直哉、あの結婚式はもう終わったの。もう一度やるつもりもないわ。今日ここに来たのは、荷物を取りに来ただけよ」
手を振り払われたことにイラついていた直哉だったが、その言葉を聞いて怪訝そうに眉を寄せた。「荷物を取りに……?」
星奈は頷いた。「そう、今すぐ出て行くわ」
直哉は冗談でも聞いたかのように、鼻で笑って問い返した。「どこに行くあてがあるんだよ?」
直哉は星奈が孤児であることをよく知っていた。彼女にはこの家以外、帰る場所なんてないはずだ。
ここ5年、星奈の世界は自分を中心に回っていた。だから彼女が自分から離れられるわけがないと確信していたのだ。
(引越しなんて言い出したのは、俺に頭を下げさせるための脅しに過ぎない) 直哉はやれやれと首を振り、さらに何か言おうとした。
その時、背後から理紗の声がした。
「直哉、荷物をまとめたらすぐ降りてくるって言ったじゃない。 どうしてこんなに時間がかかってるの?」
言いながら部屋に入ってきた理紗は、直哉の向かいに立っている星奈を見て、すぐに驚いた顔を作った。「星奈、どうしてここにいるの?」
星奈は淡々と理紗を一瞥した。「ここは私の新居のはずだけど? 私がいて何か問題ある? それよりあなたこそ、何しに来たの?」
理紗はわざとらしく傷ついたように伏し目がちになり、弱々しい声で言った。「果物ナイフで怪我しちゃって……。直哉が心配して、数日そばにいてくれるって言ってくれたの」
そこで言葉を切り、彼女はようやく星奈の荷物に気づいたふりをして、信じられないとばかりに口元を押さえた。
「星奈、これどういうこと? まさか怒ってるの?いくら怒ってるからって、こんなに大騒ぎしなくてもいいじゃない。 気に入らないことがあるなら私に言ってよ。謝るからさ、こんなことしないでよ」
星奈は冷ややかに口角を上げ、ゆっくりと理紗に歩み寄りながら尋ねた。「本当に謝るつもり?それ、本心なの?」
直哉の手前、理紗は演技を続けるしかなかった。
彼女はしおらしく頷いた。「もちろんよ。あなたが許してくれるなら」
「いいわ、わかった」 星奈は晴れやかな笑顔を見せたが、その瞳には何の感情も宿っていなかった。「心から謝りたいっていうなら、遠慮なく受け取ってあげる」
言い終わるが早いか、星奈は力一杯腕を振り上げ、理紗の頬を思い切り平手打ちにした。
パンッ!
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