
子を奪われた令嬢は、黒い幼馴染と復讐を誓う
章 3
―― 神田莉緒――
晴二郎は、あの夜以来、家に戻ってこなかった。彼の不在は、もはや私にとって日常となっていた。彼の残した空虚な空間だけが、私の心を蝕んでいた。彼の存在が薄れていくにつれて、私の心の中で、彼への愛もまた、薄れていった。
私は、指にはめていた結婚指輪を、ゆっくりと外した。それは、かつて私と晴二郎の絆を象徴する、輝かしい宝石だった。しかし、今となっては、何の価値もない、ただの金属の塊に過ぎなかった。
カラン、と音を立てて、指輪はゴミ箱の底に沈んだ。私の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。もう、終わりだ。
その日の午後、晴二郎からメッセージが届いた。
「莉緒、今日発表会がある。僕の成功を祝ってくれるだろう? それに、志賀財閥との共同プロジェクトの発表もあるんだ。会場で、あの時計を持ってきてほしい」
彼のメッセージは、私をまるで召使いのように扱っていた。私の感情など、彼にとってはどうでもいいことなのだ。
彼の寝室に入り、指定された時計を見つけた。それは、私が彼にプレゼントした、高価な腕時計だった。彼はかつて、「この時計は、僕が一番大切な人に贈るんだ」と私に言った。その言葉が、今、私の心に深く突き刺さる。彼は、私ではない、別の誰かに贈るつもりだったのだ。
私は、その時計をじっと見つめ、静かに笑った。その笑いは、悲しみと諦めが入り混じった、虚ろな笑いだった。
私は、無表情のまま、運転手に時計を渡した。
「これを、晴二郎に届けてほしいんです」
私の声は、感情を一切含まない、冷たい声だった。
「そして、この離婚届も」
私は、離婚届を彼に手渡した。私の決意は、揺るぎないものだった。
私は、運転手の運転する車に乗り込んだ。目的地は、晴二郎と彩良が、彼らの「成功」を祝うための豪華な会場だった。車窓から流れる景色は、私の心を通り過ぎていく。
会場に到着すると、中からは賑やかな音楽と、人々の楽しげな声が聞こえてきた。その明るい雰囲気が、私の心の中の暗闇を、さらに深く際立たせた。
私は、ゆっくりと会場のドアを開けた。一瞬にして、会場中の視線が私に集中した。数々の目が、私を好奇と嘲りの目で見ていた。
「あれ、神田莉緒じゃないか?」
「スキャンダルまみれの女が、よく顔を出せるな」
「長本社長も、こんな女と結婚して、本当に可哀想だ」
私の耳に、周囲のひそひそ話が聞こえてくる。しかし、私の心はもう、何も感じなかった。私は、彼らの言葉を無視し、ただまっすぐに晴二郎の元へと向かった。
晴二郎は、私の姿を認めると、眉間に深い皺を寄せた。彼の顔には、不快感が露わになっていた。
「莉緒、なぜ君がここにいるんだ?」
彼の声は、怒りに満ちていた。
「これを、届けに来たのよ」
私は、微笑みを浮かべながら、彼に時計を手渡した。その微笑みは、彼の目には、ひどく皮肉に映っただろう。
彩良は、晴二郎から時計を受け取ると、わざとらしく私の目の前で箱を開けた。その中から現れたのは、晴二郎が「一番大切な人に贈る」と言っていた時計だった。
「晴二郎、この時計、私に付けてくれる?」
彩良は、甘えるような声で晴二郎に言った。晴二郎は、一瞬躊躇したが、やがて無言で彩良の腕に時計をはめた。その光景は、私にとって、彼らの関係性の全てを象徴していた。
彩良は、晴二郎にキスをした。そして、勝ち誇ったような目で、私を挑発するように見つめた。私の心は、何も感じなかった。ただ、空虚な空間だけが、そこにあった。
その時、彩良が突然「きゃっ!」と声を上げ、わざとらしく足元をよろめかせた。
「彩良!」
晴二郎は、すぐに彼女を抱き留め、私を睨みつけた。
「莉緒、君は一体、何がしたいんだ!」
彼の声は、怒りに震えていた。
「これを、渡しに来ただけよ」
私は、静かに離婚届を彼に差し出した。その書類は、私たち二人の関係の終焉を告げる、冷たい宣告書だった。
彩良は、突然腹部を抱え、「痛い…」と呻き声を上げた。その声は、晴二郎の気を完全に私から逸らした。
晴二郎は、私から書類を受け取ると、中身を確認することもなく、乱暴にサインをした。彼の顔には、ただ彩良への心配と、私への苛立ちだけが浮かんでいた。
「彩良、大丈夫か? すぐに病院へ行こう」
晴二郎は、彩良を抱き上げると、私に背を向け、会場を後にした。彼の背中は、私にとって、もはや何の感情も呼び起こさない、ただの影だった。
私は、離婚届を拾い上げ、踵を返そうとした。その時、誰かに足を引っ掛けられ、バランスを崩して転倒した。ゴン、と鈍い音がして、私の頭部から、温かい液体が流れ出した。
晴二郎が、一瞬だけ私の方を振り返った。しかし、彩良に腕を掴まれ、彼は再び私に背を向けた。彼の目には、もう私など映っていなかった。
私は、床に倒れたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。周囲の人々は、私を冷めた目で見ていた。誰一人として、私に手を差し伸べる者はいなかった。私の婚約指輪が、指から滑り落ちていた。いつの間にか、指輪は緩くなっていたのだ。私たちの関係が、既に破綻していたことの象徴のように。
私は、血の滲む頭部を抑え、ゆっくりと立ち上がった。周囲の視線など、もう恐れるものは何もなかった。私は、足を引きずりながら、会場を後にした。
タクシーを止め、病院へと向かう。運転手は、私の血だらけの顔を見て、驚きの声を上げた。
「大丈夫ですか、お客様!」
「ええ、死にやしないわ」
私は、顔の血を拭いながら、乾いた笑みを浮かべた。私の心は、もう何も感じなかった。だが、この傷はまだ序章に過ぎない。本当の地獄は、このあと私を待ち受けていた。
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