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さよなら契約、涙のオフィス の小説カバー

さよなら契約、涙のオフィス

法務部から催促された書類を手に、彼女は上司が待つオフィスの前で立ち尽くしていた。社内では公認の仲であり、普段ならノックもせずに足を踏み入れる場所だ。しかし、この日に限っては胸騒ぎを覚え、戸惑いながらも扉を叩いた。中から漏れ聞こえてきたのは、衣擦れの音と女性の艶やかな笑い声。不安に駆られながら扉を開けた瞬間、目の前の光景に心は凍りつく。デスクに腰掛ける上司の胸元には、一人の女性が親密な様子で寄り添っていた。窓から降り注ぐ陽光が、彼のネクタイを整える彼女の細い指先を美しく照らし出し、二人の間の甘い空気を残酷なまでに際立たせている。視界が歪み、喉の奥に言葉が詰まる。絞り出すようにして書類の件を告げようとしたその時、二人の視線が同時にこちらへと向けられた。公私ともに築き上げてきた関係が、音を立てて崩れていく。このオフィスに漂う親密な空気は、もはや彼女が知るかつてのものではなかった。衝撃のあまり声も出ない彼女と、平然と振り返る上司。静寂に包まれた部屋で、三人の運命が静かに交錯し始める。
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2

オフィスに戻ると、路遥は引き出しの奥からフォトフレームを取り出した。

それは昨年の社内イベントの写真で、宋津年が彼女の腰を抱き、彼女にだけ聞こえる甘い言葉を耳もとで囁いている。

写真の中の彼女は、目尻を弓なりにして笑っていた。

アシスタントの小林がノックして入ってくる。「路部長、こちらがマーケティング部の新しい企画です」

「机に置いて」路遥は顔を上げず、指先で無意識にフレームの縁をなぞった。

小林が少しためらって言う。「あの蘇秘書、また来ました? 受付が、彼女が上のフロアへ宋社長を探しに行ったのを見たって」

路遥が目を上げると、小林は即座に口をつぐんだ。

室内は一気に静まり返る。

「ロンドン行きの航空券を取って。10日後の便」路遥が口を開く。

小林が目を丸くする。「ご出張ですか」

路遥はフォトフレームをうつ伏せにして机に置いた。「いや、離れるの」

窓の外は相変わらず陽光が明るく、デスクの上の多肉植物を照らしていた。あれは宋津年がくれたものだ。

3カ月手入れしていないせいで、もう少し萎びている。

路遥は乾いた葉に触れ、津年がそれを彼女の机に置いた日の言葉を思い出す。「君と同じだ。強そうに見えて、ほんとは手をかけて守ってやらないといけない」

そして今、彼は別の女の子を丹念に守っている。

スマホの画面が点き、宋津年からのメッセージが届く。【晩意の気持ちが不安定だ。家まで送る。今夜は夕食を待たないで】

路遥はその一文を長く見つめ、画面が自動で暗くなるまで離さなかった。

3カ月前のあの雨の夜を思い出す。

宋津年は血まみれの蘇晩意を抱えて救急外来へ飛び込み、彼女はその傍らに立ち尽くしていた。手には雨でぐっしょり濡れた記念日のプレゼント。

あのとき悟るべきだった。ひとたび犯した過ちは、もう取り返せないのだと。

————

夜が更け、路遥はリビングの出窓に腰を下ろし、開いたままの本を抱いていた。

玄関の方で鍵の回る音がし、彼女は本を閉じる。顔にはもう、癖になった微笑が載っている。

「遥遥?」 宋津年がドアを押して入り、手に小ぶりな紙箱を提げている。「まだ起きてた?」

「待ってたの」 彼女の声は柔らかく、異変は微塵も見せない。

宋津年は近づいて紙箱をテーブルに置き、腰を落として彼女と目線を合わせた。「城南のあのスイーツ店、最後の一つの栗のケーキ。君が一番好きだって覚えてた」

箱には話題の店のロゴ。確かに手に入りにくい。

前から一度食べたいと口にしては、長蛇の列で諦めてきたのだ。

「ありがとう」 彼女はケーキを受け取り、指先が彼の温い手の甲に触れて、すぐ引っ込めた。

宋津年は彼女の距離を敏感に察し、ため息をつく。「今日、オフィスで晩意が立ちくらみを……」

「知ってる」 路遥は彼の言葉を遮り、口角にちょうどいい微笑の弧を描いた。「まだ体が回復してないんだもの。あなたが面倒を見るのは当然だよ」

彼は眉をわずかにひそめ、彼女の頬に触れようと手を伸ばす。「怒ってる」

「ううん」 彼女は顔をそらして避け、立ち上がってキッチンへ向かった。「何か飲む?」

宋津年は後を追い、背後から彼女の腰を抱く。「そんなふうにしないで。あの日の事故で助手席に座っていたのが俺だったら、今、記憶を失って世話されてるのは俺だ。 晩意は仕事のためにこうなったんだ」

路遥は背中を向けたまま、指先でキッチンカウンターの縁を無意識に握りしめた。

また同じ台詞だ。この3カ月、数え切れないほど聞いた。

「分かってる」 彼女は振り向き、彼のよく知る柔らかな笑みを浮かべた。「私、そんなに狭量じゃないよ」

宋津年は明らかに胸を撫で下ろし、彼女の頭頂に軽く口づける。「やっぱり君が一番分別があるって分かってた」

分別、という言葉が心に棘のように刺さる。

路遥の脳裏に、昼間、蘇晩意が彼の胸に身を預けていた姿がよぎる。あの子は決して「分別」を求められない。

「ケーキ、今食べる?」彼女は話題を変えた。

「うん」 宋津年は彼女をソファへ引き寄せ、嬉々として包装を開ける。「ほぼ2時間並んだ」

栗のケーキは甘ったるい香りを放ち、クリームの上の金箔が灯りにきらめく。

路遥は小さなスプーンでひと口すくって口に運んだ。甘さが舌にほどけても、いつもの高揚はどこにもない。

「おいしい?」彼が期待を込めて尋ねる。

「うん、とても」彼女は頷き、もうひと口をすくって彼の口元へ差し出す。「あなたも」

宋津年は彼女の手からケーキを食べ、満足げな色を目に浮かべる。「君が気に入ってくれたならいい」

彼は彼女の口元の、実際には存在しないクリームを拭い取るふりをした。「今週末、映画を観に行こうか。デート、しばらくしてないし」

「いいよ」 彼女は即座に応じ、心の中では10日後のロンドン行きの航空券のことを考えている。

宋津年は彼女の素直さに明らかに満足し、肩を抱いて会社の話をとりとめもなく始めた。

路遥は静かに耳を傾け、ときおり相槌を打つ。

窓の外から月光が差し込み、床に寄り添う2人の影を落とす。まるで親密そのものだ。

「疲れた?」彼女の上の空に気づいて、宋津年が低く問う。

路遥は彼の肩にもたれかかった。「ちょっと」

「じゃあ、早めに休もう」彼は彼女の額に口づける。

寝室で、宋津年はほどなく眠りに落ちた。

路遥は横向きに、彼の寝顔の輪郭を見つめる。3年前に付き合い始めたころの彼もこうだった。どうにかして彼女を笑わせようとしてくれた。

ただ今では、そんな甘い小細工はもう彼女の心を動かさない。

彼女はそっと身を起こし、バルコニーへ出た。

夜風は少し冷たく、遠くの街の灯が明滅している。

スマホの画面がふたたび灯り、航空会社から航空券の確認メッセージが届く。

路遥は寝室の方を振り返った。宋津年は寝返りを打ち、寝言で彼女の名を呟いた。

彼女は画面を消し、音もなく笑った。

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